63 恩人は変な人
はあ、なんだって言うんだろ。目立ちたくないのに……。
店の天井を見つめながら、美穂は小さく溜息を吐いた。彼女は仰向けになっており、背中に先ほど飛び込んできた男を敷いている。たった今、彼と共に踏み台から勢いよく倒れ込んだばかりである。
「だ、大丈夫?」
頭の上から男がそう尋ねてきた。どうやら彼は、美穂が踏み台の上でバランスを崩したのを見て、咄嗟に彼女を支えようと、飛び込んできたらしい。彼が飛び込んでこなければ、美穂は普通に床に着地できたのであるが、人の恩を踏みにじるような真似はしたくない。美穂は素直に礼を述べることにした。
「ありがとうございました。私は大丈夫です」
それからあごを引き、視線を自分の胸元に下げる。「それはそうと、手、放してほしいんですけど……」
「え? あっ!」
男の手が、美穂の豊満なバストを鷲づかみしていたのである。すぐに手を退ける男。「ご、ごめん」
美穂は男の上からくるりと身体を反転させた。「ぐえ」と苦しそうな声を上げる男を無視し、床にひざをついて、そのまま立ち上がる。そして、床に落ちていた眼鏡と野球帽を拾い上げる。
「あなたこそ、お怪我はありませんか?」
眼鏡をかけ直してから、美穂はひざまずく男に野球帽を差し出した。男も「ありがとう」と野球帽を受け取り、それを被り直しながら立ち上がった。
パンパンと服についた砂ぼこりをはらう男の全身をまじまじと眺める美穂。先ほどからずっと近くにいた客である。身長は百七十五センチほど。細身の身体にグリーンのティーシャツ、薄汚れたジーパン。次に野球帽の下の、顔をピックアップしてみる。白い肌に不潔な無精ヒゲ、細い目に薄い唇……。浪人さんかな、と美穂は勝手に予想した。
美穂ははっと気がつき、辺りを見回した。二人が床に倒れ込んでいた時は多少の注目を浴びていたかもしれないが、今はどの客も無関心といった感じだ。もともと店の中では目立たない場所である。心配して駆け寄ってくる店員の姿もない。
よかった。バレてないみたい。
ホッと胸を撫で下ろす美穂。
「あ、あの、本当にゴメンね」
浪人さん(仮)が申し訳なさそうに眉を曲げ、突然謝ってきた。美穂は何のことだか分からず「え?」と目を丸めた。「いや、だからその……。胸触っちゃって」
「ああ」
触ったというより、つかんでいたが。「気にしなくていいですよ。あなたのおかげで助かりました」
そう言って美穂は微笑んだ。彼女も気にしていなかった。バストはあくまで商売道具、ファンのためにあるものだと考えている。彼に触られることは許容の範囲内である。美穂は彼が自分のファンであると確信していたのだ。
「あ、あの、ひょっとしてさ」
口元を少し緩め、浪人さんが言った。きた、と美穂は思った。「君ってテレビによく出てる子だよね。えーっと……。ごめん、名前が出てこない」
はいはい、おとなしく白状すればいいのに。
呆れたように息を漏らす美穂。彼が自分のファンでもない限り、たかが踏み台の上でバランスを崩しただけで飛び込んではこないであろう。
「そうですか」
美穂は少しからかってやることにした。「羽山って言います。羽山美穂」
「羽山?」
一瞬眉をひそめる浪人さん。美穂は笑いをこらえるが、浪人さんは意外にも、すぐに口を大きく開け「ああ」と声を上げた。「そ、そうだ! 羽山美穂ちゃんだ。ごめんごめん、言われたらすぐ思い出したよ。今大忙しだよね」
「あ、ええ、はい」
あ、あれ?
狐につままれたような表情になる美穂。
ファンじゃない? っていうか私の名前知らないの? いや、それとも私がからかわれてるの?
「あ、ごめん」
謝ってばかりの浪人さん。片手で口もとを押さえる。「あんまり大きな声で名前呼んじゃ騒ぎになっちゃうね。本当にごめん」
「別にいいですよ」
美穂は少し面白くなかった。「好きなだけ呼んでください」
羽山美穂などというアイドルはどこにもいないのである。
改めて礼を述べ、美穂が浪人さんと別れてから五分ほどが経過した。美穂は再び例の踏み台の前にいた。先ほどは失敗したので、今度こそは化学の参考書を手に取りたいのであるが、なかなか踏み台に足をかけることができない。その理由は……。
まだ見てる……。
十メートル先で本を探すフリをしながら、浪人さんがチラチラとこちらの様子を窺っているのである。まるで、子供を心配する親のような目つきで。
もう大丈夫だって。っていうかさっきはあなたのせいで倒れたんだから。
苛立たしそうに髪をかき上げる美穂。踏み台の上に上がって、もし、またバランスを崩しでもしたら、再び浪人さんが突っ込んでくるかもしれない。そうなったら、今度こそ周りの客に自分の存在がバレてしまってもおかしくはない。
しかたないな。
美穂は深く溜息を吐いてから、浪人さんのもとへ歩み寄っていった。
「すみません」
そう声をかけると、浪人さんは意外そうに細い目を少し開けた。「厚かましいかもしれませんが、私だとまた倒れてしまいそうなので、本を取っていただけませんか?」
「え? ああ」
二、三度頷き、浪人さんは笑顔を見せた。「全然かまわないよ。どれ?」
美穂は浪人さんを踏み台の前に案内した。それから、棚の上方を指差して言う。
「高校の化学の参考書ならどれでもいいんですけど、難しくなさそうなのがいいです。あ、あの『高校生のための基礎化学』ってのお願いします」
「いや」
軽く首を振る浪人さん。「あの教授の本は説明が回りくどいんだよね」
彼も指を差す。「僕のオススメとしてはあの『高校化学ワンツースリー』かな。問題集もついてて、その解説がすごく分かりやすいよ」
「そ、そうなんですか」
さすが浪人さんだ、と美穂は思った。「じ、じゃあ、とりあえずそれを」
「オーケー」
そう言って、浪人さんが踏み台に足をかけると同時に、美穂は「あっ」と彼を制した。「ん?」
いぶかしげに眉をひそめる浪人さん。
「あなたぐらいの背だったら、踏み台いらないような……」
美穂のその言葉を聞き、浪人さんははっとした顔を浮かべ、踏み台から足を下ろした。
「それもそうだね」
そして、彼は笑った。美穂もおかしくなり、「ふふ」と笑う。
なんか、変な人だな……。