61 普通な救世主
夕食を済ませた後、綾香は二階へと上がり、十代を共に過ごした自室に入った。彼女が家を出た頃とほとんど変わっていない部屋を、懐かしげに見回した後、窓を開け、窓から外に出た。瓦屋根の上を慎重に歩き、玄関側までぐるりと回る。そして、両親の寝室の窓の脇に背をもたれて座り、ふうと一息吐いた。
さて、どうするかな。
目の前の夜景をぼんやりと眺めながら、綾香は心の中で呟いた。すっかりと暗くなった空の下、眼下に街の灯り、その先には工場の灯りが見える。工場の向こうは佐世保湾。灯りを反射した水面が、キラキラとかすかに揺れている。綾香はこの場所がとても気に入っていた。両親の寝室には立ち入り禁止ということになっているため、昔からよく、こうして屋根伝いに歩き、この景色を眺めに来ていたのである。(屋根に上がるのも禁止なので、バレたら怒られるが)
お父さんを説得するにしても、どうすればいいっちゃろ。
綾香はジーンズのポケットから携帯電話を取り出した。携帯を開き、メモリの中から、ある人物の名前を探し出し、着信ボタンを押す。
「あ、南さん?」
電話をかけた相手は、マネージャー南吾郎であった。
《あん? 佐世保?》
けだるそうな声で南は言う。本日は彼も確かオフである。綾香は南のプライベートについてほとんど何も知らないので、彼が今どこで何をやっているのかは全く想像がつかない。《お前、明日の夕方にラジオあんの分かってんだろうな》
「わ、わかっとうよ」
深夜ラジオの収録である。「それまでには帰らないかんっちゃけん。ねえ、何かお父さんを説得する方法考えてよ」
《知るか。勘当されろ》
あんたが私をアイドルにしたっちゃろうもん!《……。あ、違う違う、うちのタレントなんだよ。俺が今担当してる馬鹿ガキでさ》
ん?
綾香は眉をひそめた。後半は明らかに自分に向けられた言葉ではないが。
「なん? 誰か一緒におると?」
《あ? お前には関係な……。いやいや、今切るから》
ははーん、女か、と綾香は悟る。《とにかく、明日までには戻って来い。親を説得すんのは勘当されてからでも遅くないだろう》
遅いよ!
「ふーん、そんなこと言っていいっちゃね」
含みを持たせた声で綾香は言う。それから彼女ははあと息を吸い込んだ。「吾郎おっ! そこにいるのは誰? 私というものがありながら。ひょっとしたら浮気いっ!?」
大声でまくしたてる綾香。
《馬鹿! やめろ! いやいや、違うってば。こうゆうやつなんだって》
焦ってる焦ってる。
綾香は必死で笑いをこらえた。
「絶対許さないわよおっ! 死んでやるうっ!」
《馬鹿なことしてないで、さっさと親父を説得する方法考えるぞ》
よし、落ちた。
秋の心地よい夜風が頬を撫でる。しかし、それに浸ってはいられない。綾香の顔は真剣である。
「とにかく、頭が硬いんよね。お父さん公務員で、死んだお祖父ちゃんも公務員。多分、公務員以外の仕事は全部ヤクザやと思っとるよ」
《そうゆう頭の硬い人間には、下手な小細工は裏目となりそうだな。……。ああ、もうちょっとで終わるって》
時折入る女への弁明の言葉がひどく耳障りである。《あ、いいこと考えた! 社長に連絡してみよう。あの人今、博多に出張してるんだった》
「ってことは……。社長がうちに来てお父さんを説得してくれるの?」
《それしかないだろう。あの人なら公務員受けしそうだ》
あんたならすぐ警察呼ばれるな、と綾香は思った。《住所は契約書のとおりでいいんだな?》
「うん」と返事をし、綾香は点々と星が輝く空を見上げた。
社長……。あんたに懸けるばい!
そして、二三度顔を合わせたことのあるSDP社長の顔を空に思い描こうとする。しかし、特徴がなさ過ぎて顔を思い出せない。
「屋根に上がるなと何度も言っているだろう」
「え?」と綾香は振り返った。なんと、寝室の窓から鬼のような形相をした父親がひょっこりと顔を出しているではないか。「うわっ!」
綾香は驚いてバランスを崩し、前のめりに倒れ込んだ。そして横になり、そのまま屋根の上をゴロゴロと転がっていく。「ギャー!」
「あ、綾香ー!」
父の叫びもむなしく、綾香は一階の玄関近くにドスンと落ちてしまった。尻を押さえ、「うう……」と唸り声を上げながら、彼女は一緒に落ちた携帯からの、南の声を聞いていた。
《どうした? 返事をしろ》
南さん、私もうダメかも……。《馬鹿! アホ! マヌケ! 大丈夫か!?》
……。
綾香はむくっと起き上がった。そして、地面の携帯を拾い上げ、ピッとボタンを押し、通話を切る。それから玄関の扉を開け、家に上がろうとしたところで、両親におとなしく捕まり、今度は二人から説教を受けた。
ちなみに、綾香は屋根から落ち慣れていたため、無意識のうちに受身を取っており、怪我は軽い打撲で済んだという。
ビシッとスーツを着こなし、手に紙袋を下げた社長が池田家を訪れたのはそれから約二時間後のことであった。彼は玄関先で普通に挨拶をし、池田家に迎え入れられると、それから普通に客間に通された。正座をしながら、博多で買ったという高級菓子折りを普通に差し出し、普通に博多に出張に来ているという旨を説明した。そして、綾香がいかにアイドルとしての素質を持っているか、また、SDPにとって綾香がいかに必要な存在かなどを、涙ながらに力説してみせたが、あまりに普通だったので詳細は省くことにする。
説得から約一時間後、ついに父が折れ、綾香の芸能活動を認めた。ただし、仕送りは打ち止めとなってしまった。
家の門の前で、綾香が礼を言って社長を送り出した際、社長は普通に綾香に向かって親指を立ててみせた。