58 名店ぶるうす
細長い湯切りに入った麺を素早く下ろし、止め、素早く下ろし、止め、湯を切る。続いて、そのラーメンをあらかじめ秘伝のスープを入れておいたどんぶりに移し変え、メンマ、ゆで卵、のりを飾り付ける。これで、ラーメン屋『ぶるうす』のスタンダードとなる『醤油ラーメン(七百五十円)』のでき上がりである。
「ラーメン一丁お待ち!」
威勢良くそう叫び、井本真一はカウンター内から身を乗り出して、ラーメンをカウンターの上に置いた。カウンターの向こうで、ぼおっとした表情のサラリーマン風中年男性がそのラーメンを自分のもとへ引き寄せる。そして箸を使い、ずるずるとラーメンを啜る。男が満足そうな顔に変わったのを横目で確認してから、真一は壁に寄りかかり、腕を組んだ。そんな彼の顔も心なしか満足げである。
ラーメン屋『ぶるうす』で真一がバイトを始めてから二ヶ月近くが経過した。今では真一も、一人でラーメンを調理することができるようになっていた(ただし秘伝のスープの味付けだけは店長と若頭のみの仕事である)。
恋人池田綾香のひどい泣き顔が全国に晒された日の翌日。昼ピークを過ぎた『ぶるうす』店内には、カウンター席の中年男性一人だけしか客がいなかった。
「井本くん」
入り口から最も遠いカウンター席に座り、新聞を読んでいた店長が真一の名を呼んだ。眼鏡をかけ、人の良さそうな顔をした初老の男である。短く刈り込んだ髪の毛に白髪が上手い具合にブレンドされており、見方によってはとても綺麗に見える。「ぼちぼち休憩取っていいよ。そろそろ萩本が来る頃だろうから」
「あ、はい」
そう答えながら軽く会釈する真一。続いて、入り口の真上にある時計に目を向ける。『若頭』の萩本和人の出勤時間である午後三時まで、あと十五分ほどである。と、その時、入り口の引き戸がガラッと開いた。そして、若い男女が店内に足を踏み入れる。
「わ、ブルースが流れてる」
黒い髪を後ろで束ねた女が店内を見回しながら言う。真っ黒なワンピーズの上から白いブラウスを羽織っている。目が大きく、愛らしいルックスを持った女である。「だから『ぶるうす』っていうんだねー」
ん?
真一は少し引っかかった。女の顔に見覚えがあるような気がしたのだ。
「友達に教えてもらったんだ」
スポーツ刈りが少し伸びたような髪形の男。紺のティーシャツと黒いジャージという姿である。こちらに見覚えはない。「ここのラーメン、けっこういけるんだってさ」
真一は店長に目を向けた。店長がこちらを見すえているのを確認し、真一は二度頷く。店長も頷く。『この二人にラーメンを出し終えてから休憩に入る』という合図である。
「へい、らっしゃーい!」
入り口近くのカウンター席に並んで座った二人に真一は声をかけた。「何にしやしょう」
ラーメン屋でバイトをしていると、普段は使わない江戸っ子弁が身についてしまうものである。
「ラーメンで」
男がメニューも見ずに答えた。いわゆる『玄人』かもしれないと真一は思った。
「じゃあ、私も同じので」
女はそう言って、真一に向かってニコリと笑った。その笑顔が非常に魅力的だったため、思わず胸をキュンとさせてしまう真一。
こりゃあかなりの逸材だな。もしアイドルとしてデビューしたら、間違いなくDVD買っちまうぜ。
そんなことを考えながら真一は「かしこまりやしたー!」と返事をした。
「ん?」
突然眉をひそめる女。じっと真一の顔を睨みつける。
「どうしたの?」
男は真一の顔を一瞥してから、女に目を向けて言った。女は真一を睨みつけたまま「ちょっと……」とだけ答える。
「あ、やっぱりっすか?」
真一はそう言って愛想笑いを浮かべた。「俺もなんとなく会ったことあるような気がしたんすけど」
「はい。ありますよねえ」
女は相変わらず真一を睨みつけたままである。「うーん、どなたでしたっけ?」
「ええっ!?」
真一と女の顔を何度も見比べる男。「二人とも覚えてないの?」
呆れたような声で男は言った。
「おう、待たせたな、真一」
洗い場のほうから声が聞こえた。そちらに顔を向ける真一。そこに若頭の萩本和人が立っていた。この店には洗い場の奥に勝手口も存在するのである。
「あ、お疲れっす」
頭を押さえて会釈する真一。
リーゼント頭を潰すようにタオルを巻きながら、萩本がカウンター内、厨房へと歩いてくる。二十代後半ほどの男性で、背がとても高く百九十センチ近くある。
「後は俺がやるから、お前は休憩入れ」
そう言ってから萩本はカウンター席に座る男女に顔を向け、にんまりと微笑んだ。「ラーメン二丁でしたっけね」
聞こえていたらしい。
お言葉に甘えて後は若頭に任せよう、と真一は店の奥へと下がった。頭に巻いたタオルを外し、それを洗い場の近くに置く。そして、再び厨房へと戻り、そのままカウンターを出て、カウンター席に座る。店の奥、店長が座る場所のすぐ近くである。この店では、休憩中、一杯だけ無料でラーメンを注文することができるのだ。余分な金のない真一。その制度を利用しない手などない。
「あっ!」
女が声を上げた。口を大きく開けて(嬉しそうな顔で)真一を真っ直ぐに指差している。どうやら真一のトレードマークである金髪を見て、真一のことを思い出したらしい。
あっ……。
相手に思い出されたことが引き金となってか、真一もようやく彼女のことを思い出した。
「えーっと……。詩織ちゃん?」
恋人池田綾香の元親友、矢上詩織である。