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54 号泣少女

 綾香はつぼを見つめたまましばらくの間、固まっていた。頭の中では幾多もの思考が暴れ回り、それぞれがぶつかり合って何一つ形にならない。

 わ、私のせいなん?

 なんとか形にしたのはそんな言葉であった。綾香はふうと深呼吸をし、それからキョロキョロとあたりを見回した。誰かに目撃されていないかという不安からであったが、いずれは結局……。

 ガタッ。 

 スタジオの扉が開いた。綾香はハッとそちらに目を向けた。同時に姿を現したのは広田で、彼は苦笑を浮かべながら、カメラの後ろに戻ってきた。

「いやー、待たせちゃってゴメンね」

「あ、いや、その」

 綾香はひきつった笑顔で彼を迎えた。無意識の内につぼの前に立つ。広田の視界に割れたつぼが入らないようにである。やがて、他のスタッフたちも続々とスタジオに戻ってくる。さすがに隠しきれない。綾香は観念し、肩を落としてつぼの前から身体を退けた。

「ん?」

 広田が眉をひそめた。「んん? あ……。ああーっ!」

 ついにその時は訪れたのだ。「つ、つぼが! つぼが割れてるぞ!」

「ええ!?」

 スタッフの一人である若い男性が声を上げ、一直線につぼに駆け寄った。下に敷かれた純白の布を土足で踏み荒らす。しかし、全く気にしていない様子だ。それどころではないのであろう。「ち、ちょっとどうゆうこと?」

 困惑したような口調で、綾香にそう尋ねる。

「わ、分かりません!」

 首を振る綾香。手も振る。今にも泣き出してしまいそうな表情である。「いつの間にか割れてて、でも私、何もしてないんです!」

「こ、これはどうゆうことだ!」

 その時、一際大きな怒鳴り声がスタジオ内に響いた。綾香も若い男性スタッフも、全員がその声の主に注目をする。声の主は陶芸家などがよく着ている作務衣さむえを着た、背の小さな白髪の老人男性であった。先ほどの撮影中にはいなかった人物である。彼は扉の近くで、目を見開き、わなわなと全身を震わせていた。

「せ、先生!」

 若い男性スタッフが怯えたような顔で老人に向かって言った。鬼のような形相をした老人がつぼに近づいてくる。彼は割れたつぼをしばらく凝視した後、若い男性スタッフを睨みつけ、言った。

「ワシの大事なコレクションを……! お前か! お前がやったのか!」

「ち、違います」

 ぶるぶると顔を振るスタッフ。

 綾香は信じられない、といった目つきでその光景を見つめていた。

 ええっ!? つぼの持ち主なん!?

「じゃあ、お前か!? お前だろう!」

 今度はカメラの後ろの広田が標的となる。

「違います!」

 彼も首を振り、キッパリと否定した。

「じゃあ、誰が……」

 そして、老人は綾香に顔を向けた。反射的に顔をうつむかせる綾香。額に滲んだ汗の量は半端ではない。やがて、コツコツと自分に近づいてくる足音が聞こえ始める。

 来る、と綾香は顔を強張らせた。


 

「お前か?」

 先ほどの取り乱したような口調から、やや落ち着きのある口調に変わっていた。しかしながら、それはより一層重く、厳しく響いた。綾香は静かに顔を上げ、老人に目を向けた。老人の顔はやはり険しかった。

「わ、分かりません……」

 老人と目を合わすことはできなかった。「気がついたら音がして、見たらなんでか知らないけど割れてて」

「まさかあくびをしたんじゃないだろうな」

「え?」

 あ、あくび……?

「このつぼは近くにいる人物があくびをすると割れてしまうという呪われたつぼなんじゃ」

 老人はそう言ってから呆れたような表情を見せ、首をゆっくりと振った。「わざわざ伝える必要はないと思ってな。なぜなら、仕事中にあくびをする不届き者などいないじゃろう?」

 足元に汗がポタポタと落ちる。綾香は顔を強張らせたまま、黙って老人の話を聞いていた。「もう一度聞く。まさかあくびをしたんじゃないだろうな」

 ぐっと綾香に顔を近づける老人。

 あくびをしたら割れるなんて、そんなまさか……。でも実際に私があくびをした時に……。

 足元にまた汗が、いや今度は別のものだった。

「……。ました……。あくび、しました」

 綾香は泣いていた。両手で顔を押さえつけ、泣きじゃくっていた。「あくびをしたら割れるなんて……。そんなこと、想像もしてなくて……」

 何も答えない老人。彼の顔はもはや涙で全く見えないし、見ようとも思わない。綾香はそれから数秒間すすり泣きを続けた。一つの覚悟を胸に秘めながら。

 もう、私のアイドル人生は終わりなんやね。いや、私の人生自体も……。一億円のつぼの責任なんて、どうやってとればいいん?



 パッと目の前が明るくなったような気がした。そして、バタバタと騒がしい音に続き、場違いな軽い声が聞こえる。

「はーい、チロリちゃーん。どうもでーす」

 え?

 手の甲で涙を拭き取り、目を開ける。目の前に青い派手なスーツを着た中年男性、その後ろにテレビカメラを構えた人物、大きなマイクを持った人物、スタジオのものとは別の照明を持った人物……。いずれも今まで姿のなかった人物である。「チロリちゃん? これ読める」

 スーツ姿の男が言った。……。と、綾香はその人物に見覚えがあるということに気がついた。バラエティ番組でよく見かけるお笑いタレントではないか。彼は野立て看板のようなフリップボードを持っており、そのフリップにはこんな文字が書かれていた。

『我らがドッキリ探検隊』

 ド、ドッキリ……?

 綾香は周囲を見回した。先ほどまで厳しい顔をしていた老人も、スタッフも、広田も、皆笑顔を浮かべている。

 その瞬間、綾香の緊張は解けた。へなへなとひざから崩れ落ち、そのままおばあちゃん座りになった。そして、「わーん!」と声を上げた。

「わーん、わーん!」

 周りの視線など気にせず、顔を上げ、大声で泣きわめいた。「ひどいよー、ひどいよー!」

 鼻水が垂れているのを自覚していたが、それでも綾香は泣き続けた。彼女は知らなかったのだ。目の前で彼女に向けられたテレビカメラの映像が、後に全国ネットで、しかもゴールデンタイムに流されるという事実を。


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