53 相手は一億円
ピンクのキャミソールと、デニム素材のホットパンツ姿の綾香は、慌しく作業をする数人のスタッフたちを横目に、一人パイプイスにのんびりと座っていた。500MLペットのコーラをぐびぐびと飲み、やがて「プハァ!」と息を吐いた後、意味もなくペットボトルを宙にかかげる(『もう一杯!』というジェスチャーであり、なんとなくやらなければ気が済まなかったのだ)。そして、誰にも聞こえないように小さくゲップをした。
九月三日の午後四時、某撮影スタジオ内。本日の仕事は骨董品専門誌『林海』のグラビア撮影である。『林海』という雑誌の存在を、綾香は今まで全く知らなかったが、聞くところまだ創刊前らしく、知らないのは当然であった(創刊前でなくとも、骨董品専門誌などおそらく知らなかっただろう、と綾香は考えている)。ちなみに、今回のグラビアは創刊号に載るそうだ。なぜ、骨董品専門誌などに自分のグラビアが掲載されるのか、と最初は綾香も不思議に思ったが、細かいことは気にせずに仕事に臨むこととした。
現在は撮影前の空き時間というヤツである。綾香は再びペットボトルを口に近づけたが、何者かに「チロリちゃん」と声をかけられ、それを中止した。
「そろそろ撮影始めるから」
ふさふさとヒゲを生やした中年の男性。彼は今日の撮影を担当するカメラマンであり、名は広田というそうだ。「さっきも話したとおり、本当に気をつけなきゃダメだよ」
真剣な表情でそう話す広田。
「あ、はい」
綾香も真剣な顔を作り、頷いた。「細心の注意を払います」
そして、スタジオ内のある一角に目を向ける。壁と床が、天井近くから伸びた真っ白な布で覆われており、照明が当てられ、三脚に固定されたカメラが向けられている。そこは、これから綾香が立つ、被写体の背景となる場所であった。その真っ白な床に、ポツンと置かれた物がある。高さ三十センチほど、幅二十センチほどの丸い『つぼ』である。濃い茶色をしたつぼの表面に、照明の光りが鈍く反射していた。
ただのショボいつぼにしか見えないけどな……。
綾香は緊張をほぐすために、大きく深呼吸をした。撮影そのものに対する緊張ではなく、本日の『仕事相手』、つぼに対しての緊張である。
落ち着いていこう。落ち着いて……。
今回のグラビアのテーマは『古きと今』。古き物と新しき者のツーショット写真を撮ろうという企画である。新しき者はもちろん新人アイドル綾川チロリ。そして、古き物がつぼである。つぼは約一千年の歴史を持つという骨董品であり、約一億円の値が付いているそうだ。
今度は、スタジオの隅で壁に寄りかかり、腕を組んでこちらを見すえる、えびすモードの南に顔を向ける綾香。南と目が合い、心の中で彼に呼びかける。
南さん。あんたがこの仕事にやたら入れ込むのも無理はないね。一億円もするつぼをもし壊したりでもしたら、私もSDPも終わってしまうかもしれんけんね。
それから間もなくして、撮影は始まった。先ほどの服装に白いソフトハットを加え、裸足になった綾香が、つぼの隣で様々なポーズを取る
「よーし。チロリちゃん、今度はつぼの後ろに回ってみようか」
つぼを蹴ってしまわないように慎重な足取りで、広田の指示どおり壷の後ろへと回る綾香。そして、カメラのシャッター音が二度鳴る。「オッケー、そこであぐらをかいてみようか」
あ、あぐら……。
慎重に慎重に床へ座り込み、綾香はゆっくりと両足を組み合わせていった。やがて、なんとかあぐらを組む体勢になる。カメラから見れば、綾香の開かれた股間をつぼが隠しているような状況であろうか。「それじゃあ、つぼを包み込むように両手をそっと回してみて」
つ、包み込むようにって……。
一瞬躊躇しながらも、言われたとおりにする綾香。と、その時……。
「あっ」
指先が壷をかすめ、綾香は驚き、ビクッと身体を奮わせた。幸い、つぼに異常はない。
その様子を見て、広田がハッハッハ、と声に出して笑った。
「ちょっと触ったぐらいで割れたりしないから、そんなに緊張しなくていいよ」
撮影を見守る周りのスタッフたちも笑う。
それは分かっとうけど……。
綾香もぎこちない笑みを見せながら、高鳴りをやめない心臓の音を必死で押さえ込もうとしていた。
それでも撮影はなんとか順調に進み、次第に綾香も心を落ち着かせてきた頃である。一人の若い男性スタッフが広田に近づき何かを耳打ちした。
「ふん、ふん……」
小さく頷きながら相槌を打つ広田。「よし分かった」
そして綾香に顔を向ける。「ゴメン、チロリちゃん。ちょっと問題が起こってさ。しばらく待機しててもらえる?」
「あ、分かりました」
つぼの隣でうつぶせに寝転がった綾香(その時、広田に指示されていたポーズである)は、そう答えると同時に身体を起こし、ゆっくりと立ち上がった。それから、ハットを被り直そうと両手を頭に伸ばしかけた時である。
広田がスタジオを出て行き、スタッフたちや南までもがぞろぞろとそれに続いたのだ。綾香はなぜか、あっという間に一人スタジオ内に取り残されてしまった。
な、なんなん?
困惑し、不安げな視線でキョロキョロと室内を見回す綾香。相変わらず照明の光は綾香とつぼに浴びせられたままである。
いったい、何が起こったっていうと?
しかしながら、言われたとおり待機しておくしかない。綾香は両腕を上げ、とりあえず背伸びをすることにした。そして腕を下ろし、そのまま「ふあーあ」とあくびをする。
コン。
突然、近くで物音が聞こえ、綾香は大きく口を開けたまま、反射的にそちらに目を向けた。そこは彼女の隣、つぼが置いてあった場所である。
ん?
目を細めて、その場所を凝視する。あくびの直後で涙目となっており、視界が滲んでよく見えないのだ。ただ、つぼの形が変化しているような気だけはする。背が縮み、幅が広がっているような……。
目元を指でこすり、涙を拭う綾香。改めてつぼに目を向ける。
「え……?」
綾香はようやく気がついた。「え? え? えーっ!?」
つぼが真っ二つに割れてしまっていたのだ。