50 再会はラジオ
「ごちそうさま」
そう言って橘川夢多は箸を置き、両手を合わせた。それから、立ち上がって自分の部屋へと向かう。
「あら、部屋にこもっちゃうの?」
不思議そうに目を丸くしたのは彼の母親である。やや太り気味の体型で、長く茶色の髪にチリチリパーマをあてている。彼女はキッチンの洗い場に向かい、食器洗いをしていた。「これから『爆笑魚雷天国』が始まるよ」
橘川の好きなテレビ番組である。彼が毎週欠かさずそれを観ていることを母も知っていた。
「ああ」
部屋のドアノブを掴みながら、橘川は少しだけ目を泳がせた。「今日はどうしても聴きたいラジオがあってさ」
「ラジオ? こっちで聞けばいいのに」
こっちというのは、ここダイニングと隣り合う、リビングのことである。リビングにはテレビやパソコン、それにラジオも聞ける大きなコンポまで置いてあった。
「い、いやあ」
更に戸惑った表情を浮かべる橘川。「ちょっと資格の勉強とかもしておきたくてさ。自分の部屋でゆっくり聴くわ」
「ふーん……。バイト忘れないようにね」
母の疑いの眼差しを背に受けつつ、橘川は素早く部屋の扉を開け、中に入り扉を閉めた。そして、部屋の明かりをつけふうと一息吐く。
さすがに恥ずかしいよな。お目当てがアイドルだなんて。
二十一歳の橘川は、つい最近生まれて初めてアイドルのファンになってしまったのであった。
場所は橘川とその両親の住む千代田区内の某アパートである。時は九月二日の午後八時。橘川はこの時を一週間も前から楽しみにしていた。
録音用のカセットをセットしてから、ラジオの電源を入れ、滅多に聞くことのない、とある関東ローカルのFM放送局に周波数を合わせる。やがて、CDラジカセのスピーカーから流れてきたのは、テンションの高い女性DJによる一人語りであった。
「皆は最近何か新しく始めたものってある? タエコの場合はやっぱヨガなんだけど、近頃ヨガって女性の間でブームになってるから……」
ベッドで仰向けになり、橘川はしばらくその話に耳を傾けていた。「先週の犬のしつけ方の話に対する様々なご意見頂いておりまーす。まずは東京都品川区のメロン大好きパンちゃんから。あはは! それ言うならメロンパン大好きじゃないの?」
橘川はだんだんと苛立ってきた。同時に不安にもなる。一言もあの子の名前が出てこないじゃないか。あの子がこのラジオに出演するというのは本当なのであろうか。「さーて、今日はご存知のとおり、可愛いゲストが来てくれましたよー」
身体を起こす橘川。ベッドの枕元に置いてあるラジカセの録音ボタンに手を伸ばす。「とその前に、まず曲を聴いていただきましょう。ケビン&ロビンで『ムーン』」
パタッと、橘川はまた身体を寝かせた。
ケビン&ロビンの『ムーン』(最近イギリスで流行っているらしいデュエットソングだ)を聞きながら、橘川は物思いにふけっていた。
一ヶ月前、カビリオンズのイベントにゲスト出演した綾川チロリのファンになって以来、彼女の所属するSDPの公式サイトを毎日のように開き、彼女のメディア出演情報をチェックしてきたが、まるで更新される気配がなかった。しかし、一週間前、ついに新しい情報が掲載されたのだ。それによると、本日の『タエコのピュアハートステーション』(橘川が今聴いているラジオ番組)に彼女がゲスト出演するそうではないか。
ようやくチロリちゃんに会えるんだな……。
先月イベントで見た、豚の着ぐるみ姿の綾川チロリを思い浮かべ、無意識のうちの顔をにやつかせてしまう橘川。たとえ声だけだとはいえ、初めて好きになったアイドルとの一ヶ月ぶりの再会は、彼にとって、その喜びでむせび泣きしてしまうほどの、待ちに待った瞬間なのであった。
「さーて、皆、待たせちゃってゴメンね。いよいよ紹介しちゃうよー」
橘川はまたガバッと身体を起こした。それから、慌ててカセットの録音ボタンを押す。「ん? ふんふん。あー、それじゃあ自己紹介してくれるらしいから、皆、ちゃんと聞いててね」
言われなくても、耳の穴をかっぽじって聞いてやる。
やがて……。
「新人アイドルの綾川チロリです!」
ついに、お目当ての声が聞こえてきた。そしてガタガタ、と雑音が鳴った後。「チ、チロリンって呼んでね!」
一瞬の静寂。
「ハ、ハハ……」
やがて、困惑したようにDJタエコが乾いた笑い声を漏らした。そんな、ラジオから流れる微妙な空気を読み取り、橘川は感激で胸を奮わせた。
これだ! この外し方だ! ラジオの向こうにいるのは間違いなく、あのチロリちゃんだ。
「今日はよろしくお願いします……」
「へ、凹まないで……。うん、よろしくねー、チロリンちゃん。それにしても、そのポーズ可愛いねー。ラジオの前の皆にお見せできないのが残念だなー」
左手を腰に、右手をチョキにして額に持っていくあのポーズだな、と橘川は理解した。
「でも観に来てくれた人たちは真似してくれてますよー」
「本当だー。皆、チロリンちゃんになれたかなー」
「あ、あのおじさん、上手! アハハ」
チロリのその笑い声を聞き、橘川は悔しげに顔を歪めた。このラジオが公開生放送だということは知っていたが、この後九時よりバイトを控えているため、観に行くことはできなかったのだ。
クソ! バイト休んででもいくべきだったか。
何はともあれ、綾川チロリ初のラジオ出演、いよいよオンエアーである。




