49 私のままで
渋谷駅から次の仕事へ向かうと言うつばきと、一緒に渋谷駅まで向かうこととなった。綾香はそのまま吉祥寺へと帰宅である。
「うわー、やっぱり」
すれ違う人々の表情を窺いながら、綾香は言った。「誰も気がつきませんね。つばきさんだって」
「そうでしょ?」
微笑むつばき。「そういう意味でも、変装は大正解ってことです。プライベートでまで小悪魔キャラ演じてたら疲れちゃうし」
一方、撮影した時のままの格好で誰にも気づかれない綾香だが、彼女の場合は誰にも気づかれないというより、誰にも知られていないといったほうが相応しい。それなのに、綾香はなんとなくハットのつばを下げて、顔を隠してみた。少し、悔しかったからだ。
「それにしても」
苦笑しながらつばきが言う。「まさか私のこと聞かされてなかったとは思いませんでした。本当に失礼なことしちゃいましたね」
「いいんです」
唇をとがらせ首を振る綾香。「悪いのは全部あいつですから」
そして、顔だけ後ろを振り返る。綾香たちの五メートルほど後方に、つばきのマネージャーと談笑しながら歩く、南の姿があった。
先ほど、『なんで教えてくれんやったとよ!』と南に問いただしたところ、『面白そうだから内緒にしておいた』と、彼は平然と言ってのけた。それ以来、彼と口を利いていない綾香である。
「でも」
同じく後方に目を向けながらつばきは言った。「優しそうなマネージャーさんですね。私のマネージャーなんてすごく冷たいんですよ」
南は未だにえびす南のままである(おまけに綾香以外の者に対しては『ちえ美ボイス』で話す)。
「いやいやいやいや」
綾香はもの凄い勢いで首を振り、前を向き直してから言った。「あれは猫被ってるだけです! 本当はもの凄く性格悪くて、もの凄く人相が悪くて」
「でも」
優しげに微笑むつばき。「ひょっとしたら、そっちが猫を被った姿なのかもしれませんよ。私と同じように小悪魔キャラを演じてるのかも」
また後ろを振り向く綾香。そして、南の不気味な笑顔を見て、それはないそれはない、と自分に言い聞かせるのであった。
目の前の赤信号で、大勢の人に混じり足を止める。渋谷駅前スクランブル交差点。ここを渡れば、すぐにハチ公前広場である。
「あの、いくら仕事のためって言っても、小悪魔キャラを演じるのって辛くないですか?」
綾香は何気なくつばきにそう尋ねてみた。「悪いイメージとか付いちゃうし」
「いえ、『菊田つばき』の時は私じゃないって割り切ってますから」
菊田つばきは芸名だそうだが、本名はまだ知らない。「それに、小悪魔キャラを支持してくれて、ファンになってくれる人もけっこういるんですよ。そうゆう人を裏切らないためにも、絶対にキャラを壊しちゃダメなんです」
「ほえー」
つばきの、そんなファンを想う心に綾香は感心した。彼女はまだ自分のことで精一杯なのである。「私も、もうちょっと頑張らんといけませんね」
「ううん」
首を振るつばき。「チロリさんはそのままでいいと思いますよ。まあ、ファンを想い気持ちは大事ですけど、私みたいにキャラを演じる必要はないと思います」
「そ、そうですか?」
「はい」
つばきの目は真剣そのものだった。「チロリさんはアイドルとしてすごく魅力的です。そう感じる人は、私以外にもたくさんいるんじゃないでしょうか」
信号が青に変わる。みるみるうちに人で埋めつくされていく交差点。綾香たちも、人にぶつからないように注意しながら、横断歩道を歩き出した。
「あ、届きました届きました」
ハチ公前広場にて、携帯の画面を見ながら綾香は言った。これも何かの縁、ということでメルアドを交換したのだ。「自分を見失いそうになったらメールで相談します」
カチャと携帯を閉じ、それをジーンズのポケットに仕舞いながらおどける綾香。
「別に自分を見失いそうになった時以外でも大丈夫ですけど……」
苦笑するつばき。「それじゃあ、ここでお別れですね。チロリさんは吉祥寺でしたっけ?」
「はい、普通に帰ります」
「宿題忘れるなよ」
南が口を挟む。二人のマネージャーたちも、今はすぐそばにいた。綾香は南を無視し、つばきと、つばきのマネージャーにペコリと頭を下げた。
「今日はありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ」
つばきとマネージャーも頭を下げる。それから二人は、ハチ公口に向けて歩を進め始めた。「頑張ってね、チロリさん」
小さく手を振りながらつばきが言う。綾香も「つばきさんも」と手を振って応えた。そして、応えながら彼女は思った。
つばきさんだって、小悪魔キャラなんか演じなくても充分魅力的やと思うけどな……。
やがて、二人が遠くに離れてから、南が不意に口を開いた。
「お前の場合は、小悪魔キャラを演じようとしても誰も本気にしないだろうな。演技が下手すぎて」
ムッとして南の顔を見る綾香。南は早くもサングラスを装着していた。
「いいもん」
綾香はプイと顔を背けた。「私は私のままでいくもん」