4 君のデビューに乾杯
渋谷ハチ公前から、歩くこと五分たらず。そこは、なんてことはない普通の居酒屋であった。綾香と、スカウトマンの佐々木直之は、店の最も奥のスペースに向かい合わせで座る。隣のスペースとはすりガラスで区切られており、まるで二人で個室にいるように感じられた。
「俺のおごりだから、なんでも好きなもん頼んでいいよ」
そう言って佐々木は白い歯を見せる。
綾香は「ありがとうございます」とメニューを広げながらも、そこに載っている様々な料理やドリンクに、意識を集中させることが出来なかった。
うーん、何度見てもカッコいい。
メニューを見ているふりをしながら、佐々木の顔を見ているのだ。彼がスカウトマンだったら、どんな女でもすぐについていってしまうんじゃないか、とそんなことを考えながら。
お腹が空いてきたので、とりあえず主食をと、綾香はきのこ入りの雑炊を注文した。佐々木に「けっこう本格的に食うんだね」と笑われ、少し赤面する。ちなみに佐々木は何も注文しなかった。
十分が経過する。二人の話は弾んでいた。
「綾香ちゃん。君、すごくいいねー。見た目はギャルっぽいのに素朴な感じでさ。君なら多分人気出るだろうなー」
「そ、そうですかー?」
綾香は謙遜しながら、れんげで雑炊をすくい、それを口へ運ぶ。
「いや、マジでさ。もう芸名とか決めちゃおうかって勢い」
佐々木はそう言いながら、ポケットから黒い手帳を取り出し、ページをめくる。「うーんとねえ……、『晴野ひまわり』とか、『蜂蜜きなこ』とか色々リストあるけど……」
どうやら手帳に芸名のリストが書いてあるらしい。綾香は苦笑する。
「芸名ですかー? まだそんな段階じゃないでしょう」
「いやいや、こっちはいつでも準備オーケーよ」
綾香は自分の芸能界デビューが現実的となってきたことに、やや戸惑いを感じ始めていた。実は彼女、デビューする気などさらさらなかったのである。
芸能界なんて、さすがに私には身の程違いやろ。でも、どうしよう。断るにもおごってもらっとるし……、もうちょっと話聞いてみようかな。
「あ、あの……やっぱりテレビに出たりとかするんですよね」
雑炊を食べ終え、一息吐いた綾香は、初めて自分から佐々木に質問してみた。
「うん」
そしてまた佐々木は笑顔を見せる。「人気が出ればテレビにも出れるだろうね。それまではビデオが主だけど、君ならきっとすぐに売れっ子になれるよ。君、バイトしてるって言ってたけど、時給はいくら?」
「えーっと、800円です」
プッと佐々木がふき出す。綾香は少なからずショックを受けた。
わ、笑わんでもいいやん……。
「うちなら、少なくとも月収50万は堅いかな」
「ご、50万!?」
思わず大声を出し、立ち上がる綾香。
そんなら……、売れっ子になればどんぐらい……。
「さあ。どうする? やってみる?」
「はい!」
あっさりと返事をする綾香。「よろしくお願いします!」
それから彼女はペコリと頭を下げた。そして、心の中で渾身のガッツポーズを決めた。
やった! これで……! 辛い貧乏生活とおさらばできる!
「よーし、決まり」
佐々木は胸ポケットに差していたボールペンを手に取り、再び手帳のページをめくる。「それじゃあ、君の連絡先だけ聞いとくね。携帯でいいから」
「はい!」
元気良く返事をし、綾香は彼に自分の携帯の番号を告げた。
「オッケー」
番号を書き込み、手帳をしまいながら佐々木は言う。「そんじゃ、綾香ちゃんのデビューを記念して乾杯しようか。もちろん俺のおごりね」
そして彼は大きな声で店員を呼んだ。