46 テレビの現場
ハチ公像をバックに、綾香はつばきと並んで立った。五メートルほどの空間を置き、正面にテレビカメラとその他機材。その周りにスタッフたち。そして更にその奥には見物客たち。見物客は、ハチ公像後ろのカメラに映るポイントにまでいる(スタッフたちの息がかかっており、即興のエキストラともいえる)。ところどころざわついてはいるものの、それが気にならなくなってしまうほどの緊張感が現場を支配していた。そんな雰囲気に呑まれ、綾香も次第に緊張し始める。
これがテレビ収録の現場か。落ち着け! 落ち着け、私。
音声スタッフにピンマイクを取りつけてもらいながら、綾香は深呼吸をし、緊張を静めようとした。しかしながら、なかなか上手くはいかない。
「おい! 柴田」
カメラのすぐ隣に立つ三輪が突然声を上げた。綾香のそばにいた若い、眼鏡をかけた女性スタッフが「はい」と返事をする。「チロリちゃんの顔の汗を拭いてやれ」
え?
言われて初めて綾香は気がついた。幾度も汗が顔面を流れては、あごの辺りから地面に滴り落ちているではないか。
柴田と呼ばれた女性スタッフが、メイクを落とさないように器用な手つきで綾香の汗を拭き取っていく。綾香には、ハットを持ち上げ、その作業を円滑に進める手伝いをすることぐらいしか、できることはなかった。それを見守るスタッフたちはほぼ無言である。
やばい。いきなり私が足を引っ張っとる。
チラリとつばきの表情を窺う。すると、先ほどまでサングラスに隠されていた彼女のつり目がちな目が、冷たく綾香をとらえた。すぐに視線をそらす綾香。
な、なんよ! 文句があるんなら私の汗に言ってよ。
やがて、柴田が離れると同時に、綾香の斜め前にしゃがみ込む、野球帽を被った別の男性スタッフが言った。
「それじゃあ、確認です」
同時に立ち上がる彼。全員が彼に注目する。「こっちのスタートコールに合わせて、つばきがタイトルコール。そんでコーナーの説明の後で、チロリちゃんの紹介ね」
つばきを指差してから、次に綾香を指差す。「チロリちゃんもしっかり相槌打ってね」
「は、はい」
綾香がそう返事をした時、隣のつばきが「あのお」と口を開いた。綾香は今日初めてつばきの声を聞いた。
「確かコールの後にハチ公をアップで撮ってから私にズームするんでしたよねえ」
舌足らずな口調である。改めて彼女に嫌悪感を覚える綾香。「それじゃあズームの後にタイトルコールしたほうが良いんですかあ?」
「いや」
男性スタッフではなく三輪が答える。「今日はハチ公アップの時にタイトルコールを重ねるから。つばきはそのつもりで」
彼らの会話の意味が綾香にはよく分からなかった。
そのつもりってどのつもり? 結局何に合わせればいいと? いや、私はタイトルコールせんっちゃけん、私には関係ないとよね。
それにしても、とつばきの顔を見る。
やっぱ落ち着いとるな。さすが先輩ってとこか。
男性スタッフのスタートコールに合わせ、つばきが「衝動買いでリラックスー」とタイトルコールを行う。続いて、つばきと綾香、それにスタッフたちが一斉に拍手をした。
「どうも、菊田つばきでえす。毎回ゲストをお招きし、街で衝動買いをするというこのコーナー。本日のゲストはデビューしたての新人アイドル、綾川チロリちゃんでえす」
ほぼ無表情で、つばきが綾香をそう紹介した。
「どうもですー」
カメラに向かって精一杯笑顔を作り、綾香は声を張り上げた。「よろしくお願いしまーす」
「はい、どうもお。元気良いですねえ」
それに引きかえ、全く元気のない口調のつばき。「チロリちゃんは普段衝動買いとかはするのお?」
「そうですねえ」
台本に書かれていた台詞を思い出しながら綾香は答えた。「貧乏性なんで、普段は衝動買いとかしませんねー」
「ああー、貧相な顔してますもんねえ」
どっ、と沸く現場。しかし、綾香だけは固っていた。
そ、そんなん台本になかったろうもん!
「や、やめてくださいよー」
気を取り直し、綾香は笑った。「貧相な顔と貧乏性は関係ないでしょ?」
「さあ、今日は見てのとおり、渋谷を舞台にお送りしていくわけですけどお」
綾香を無視するつばき。
「なんで無視するんですか!」
綾香がツッコミを入れるが、それすらもつばきは無視してしまうのであった。
「どんな衝動買いになるのか、いやー、本当に楽しみですねえ」
「はい、オッケー!」
男性スタッフが声を上げる。「すぐに締めの撮影行きますので、台本確認しといてください」
綾香初のテレビ撮影は意外にもすんなり一発オーケーであったが、綾香の顔はやや沈んでいた。
一応、オーケーは出たけど、なんかつばきばっかり目立ってたな。
心の中でそう呟き、はあーと深い溜息を吐く綾香。と、その時。
「ちょっと……」
耳元で誰かが囁いてきた。ハッとそちらに顔を向け、そこに立つ人物の顔を見た瞬間、綾香は一気に顔を強張らせた。
つ、つばき!?
その人物は紛れもなく菊田つばきであった。