45 小悪魔を踏み台に
「あ、あの」
綾香が菊田つばきにそう声をかけた瞬間、つばき、それにスタッフたちもキョトンとした顔で皆、綾香に注目をした。綾香は一度全員の顔を見渡してから、つばきのサングラスの向こうにある瞳を真っ直ぐに見つめた。「新人の綾川チロリです。き、今日はよろしくお願いします」
そして深々と頭を下げる。
そのまま一秒、二秒、三秒と時間が経過するも、一向につばきからの返事はない。
あ、あれ?
五秒ほど待ったところで、綾香はようやく頭を上げた。それから、菊田つばきの様子を窺ってみるが……。
ええっ!?
綾香は衝撃を受けた。天と地が逆さまになり、鳥は海を泳いで魚は空を飛んだ。つばきは、なんと何ごともなかったかのように、綾香を無視し携帯電話をいじっていたのだ。
あ、ありえない……。
綾香がショックを受けたのは、そんな菊田つばきの態度そのものに対してではない。人の挨拶を平気で無視してしまう人間が同じ地球上に存在していた、ということに対してだ。
「チ、チロリちゃん」
近くにいた、スタッフと思われる若い男性が苦笑しながら綾香に近づいた。「ごめんね。今、つばきは忙しくて」
「い、忙しいって……」
携帯いじっとるだけやん!
綾香はつばきを睨みつけた。つばきは、そんな綾香の視線など気にもとめない様子で携帯をいじり続けている。
よく見ると、つばきの身体のあちらこちらに煌びやかなアクセサリーが光っていることに綾香は気がついた。指先にはリング、耳にはイヤリング、首からはペンダント。
今流行りのセレブってヤツか。金を持ちすぎて、性格が腐ってしまっとうっちゃないと?
心の中でそう呟いた後、綾香は「ん?」と周囲の空気の異変を感じ取った。
振り返ってみると、見物客たちが皆、苦笑したり、目を泳がせたり、とにかく複雑そうな顔で押し黙っているではないか。
引いてる……。無理もないな。
と、その時綾香の脳裏に、あるアイデアが浮かんだ。
綾香は見物客たちに向かって、ピッと姿勢を正した。そして「新人アイドルの綾川チロリです。よろしくお願いします」とまた深々と頭を下げたのだ。
一瞬の静寂を破ったのは一人の男性のこんな言葉であった。
「いいぞ! がんばれよ」
綾香はすぐに頭を上げ、見物客たちを見回した。そんな彼女に次々と激励の言葉が浴びせられる。
「負けるなよ! お前も絶対売れるぞ」
「けっこう良い子だね。パッとしない顔だけど」
「礼儀正しいアイドルだな。ファンになっちゃったぜ」
綾香は、何度も「ありがとうございます」と見物客たち(「パッとしない〜」発言の女を除き)に頭を下げた。そして、頭を下げながら、横目でこっそりとつばきを見やった。つばきはこちらの様子などお構いなしに、未だ携帯の画面に視線を下ろしたままである。
ふん、あんたを踏み台にして私もブレイクしたるけんね。
「それにしても、この子と違って菊田つばきって本当に性格悪いよな」
ある男性のその言葉に反応し、綾香は再び見物客たちに視線を戻した。男性の発言が引き金となり、同じようにつばきを非難する声も続々と上がり始める。その光景を見て綾香は、菊田つばきの態度にやや疑問を覚えるのであった。
なんで、こんなに人がたくさんおる前で挨拶を無視したりするっちゃろ。人前では良い子を演じときゃいいのに。
そんなことを考えながら、しばらくぼんやりと見物客たちを眺めていたが、こちらを見てニヤニヤと笑う南の姿を目の端でとらえ、その瞬間思考は停止した。
「どう?」
南のもとへ戻り、綾香は彼に小声で言った。「凄かろ? 見事にあいつを利用してやったばい」
「ああ」
南は満足そうに頷いた。「お前の腹黒さも負けてないな」
「ふん」
プイと顔を背ける綾香。「なんとでも言えばいいやん」
そう綾香が憎まれ口を叩いた時、プロデューサー三輪が手でイヤホンを作り、そのイヤホンを通して大声で言った。
「それじゃあそろそろ撮影開始しまーす。出演者の方、お願いしまーす」
綾香はそれを聞き、「ええっ!?」と声を上げた。そして、再び南に顔を向ける。
「リハーサルあるっちゃないと!?」
「リハ?」
ハットを脱ぎながら南は言う。「さっきも言ったが、この業界じゃ予定変更はザラだ。ここではコーナーの冒頭とシメの部分だけ撮影するらしいから、本番前にちょっと合わせるぐらいで充分だって判断されたんだろ。まあ、それもリハっちゃリハだが」
そして、彼はハットを綾香の頭に乗せた。その瞬間「ん」と目をつむる綾香。「ちゃんと台本読んだか?」
まぶたを開き、ハットを被り直しながら綾香は答えた。
「もちろんよ」