44 クルーに合流
「お疲れさまでーす」
その南の声を聞いて、綾香はギョッとした。声色が普段より一オクターブほど高い、『ちえ美ボイス』に切り変わっていたからだ。
南の挨拶に反応し、スタッフたちが「お疲れさまでーす」と次々に声を上げた。そして、他の皆が何ごともなかったかのように作業に戻る中、手に書類を持った一人の男だけが、二人に近づいてきた。
「お疲れっす」
にこやかに笑いながら男は言う。「随分早いっすね」
色黒の痩せた男である。歳は三十ほどで、肩まで伸びた髪を茶色に染めていた。おそらく彼がプロデューサーであろう。
「いやあ、早く来てこいつを現場の空気に慣れさせたかったんですよ」
南も満面の笑みを見せる。そして、綾香の後ろに回り込み、彼女の両肩を手でガッシリと掴んだ。「うちの綾川チロリです。三輪さん、今日はよろしくお願いします」
「よ、よろしくお願いします」
綾香もペコリと頭を下げ、挨拶をした。
「君がチロリちゃんか」
三輪は綾香の全身を舐めるように見た後、やや複雑そうな顔を見せた。「なんていうか……。ちえ美ちゃんとはちょっとタイプが違うね」
その言葉の裏に皮肉めいたものを感じ取り、ムッと眉間にしわを寄せる綾香。しかし、その瞬間。
「……!」
いてててっ!
肩に激痛が走る。どうやら、南が指に力を入れてるらしい。綾香はすかさず笑みを作った。「そ、そうですねー。ちえ美さんみたいに素敵なアイドルになれるように頑張りますう」
心にもないことを言いながら、肩の痛みが収まっていくのを確認する。南のお許しが出たようだ。
「じゃあ、もうちょいしたらリハやるから」
手に持った書類を綾香に差し出す三輪。「台本サラッと読んどいて」
「は、はい」
台本を受け取りながら、引き続き笑顔で綾香は頷いた。
「打ち合わせするっちゃないと?」
三輪が離れていった後、綾香は南に小声で尋ねた。
「時間が押してるのか、打ち合わせなんて必要ないって判断されたのか。まあ、こんぐらいの予定変更はこの業界ではザラだ。気にすんな」
「じゃあ、気にせんで台本読む」
台本をめくりながら綾香は言った。台本は、四枚のプリントの端をホッチキスでとめただけの物のようだ。
「それは構わんが」
辺りを見回す南。「やはり、まだ来てないらしいな」
おそらく菊田つばきのことであろう。綾香も同じように周辺を見回してみる。しかし、別のものに気を取られ、すぐに菊田つばき探しを中止した。
うわ、けっこう注目されとうやん。
通行人の多くは、テレビカメラなど気にもとめず、素通りしていくのだが、立ち止まって、興味深げにこちらを見物している者も少なくはない。
私のこと見とる人もおる。ひょっとして、私のこと知っとうとかいな。いや、それはないか……。でも、菊田つばきが来たらパニックになるっちゃないと?
菊田つばきは、知名度ほぼゼロの綾川チロリとは違い、売れっ子の部類である。
「ねえ、南さん」
ちょっと聞いてみるか。「つばきが来たら……。ん?」
隣に立っていたはずの南がこつ然と姿を消している。ふと別の方向を見てみると、すぐに、カメラの近くで三輪と何やら話し込む南の姿を発見した。「……」
台本読むか。
しばらくして、やたらと口元をにやつかせなら南が綾香のもとへ帰ってきた。
「なんをそんな気持ち悪い顔しとうと?」
綾香は冷めた顔で南に尋ねた。彼女は、ハチ公像後方の緩やかなカーブを描くベンチに腰かけていた。
「ちょっと面白い話を聞いたもんでな」
南はハットを取り、また被り直しながら言った。「そんなことより、そこ汚れてないか? 一応その服は衣装なんだから、どこにでも座るなよ」
「ふん」
不満げな顔で、綾香が立ち上がろうとした時、周囲がややざわついた。「ん? どうしたとかいな」
その原因はすぐに判明する。数メートル先でスタッフたちに囲まれる、サングラスを付けたド派手な巻き髪女の存在に気がついたからである。ほとんどの見物客たちの目は彼女に向けられている。
綾香はハッとした顔で南を見た。南がまたニヤリと笑いながら言う。
「ようやくおいでらしいな」
女に視線を戻す綾香。「ほれ、お前の方が新人なんだ。挨拶してこい」
あいつが、菊田つばき……!
綾香はくんくんと自分の脇の臭いをチェックした後、南に背中を向け「お尻汚れてない?」と尋ねた。そして、南からゴーサインを受け取ると、「よし」と菊田つばきのもとへ歩き始めた。