42 普通な人
「まあ、とりあえずごくろうさん」
煙草の煙をふうと吐き出してから、綾川チロリのマネージャー南吾郎はちっともねぎらってなさそうな口調で、綾香にねぎらいの言葉をかけた。
「疲れたー。やっと解放されたー」
テーブルの上に上半身をぐったりとあずける綾香。「ボイトレはいいけど、ダントレはもう絶対せんけんねー」
「いや、歌手デビューが決まったらまたやってもらう。曲にはダンスも取り入れるつもりだし、体力作りにも良いみたいだからな」
「ええー!?」
そう叫び、綾香はガバッと身体を起こすが、すぐに「いてて」と顔をしかめ、腰を押さえた。
「お前、そんな体で仕事大丈夫か?」
煙草を灰皿にもみ消しながら、眉間にしわを寄せ、南は言った。「もうあと三日だぞ?」
「あんたがダントレなんかさせるけんやろうもん!」
八月も残すところあと三日。渋谷のダンススタジオ『プリズム』での最後のレッスンを終えた綾香は、そのままSDP事務所近くの喫茶店『ビリーブ』に呼び出され、南と本格デビュー前最後の打ち合わせを行っていた。
ちなみに最後のダンストレーニングは、一応毎日ジョギングを続けたため(ただし、ノルマ十キロを二日目からは五キロ、七日目からは二キロに減らしたが)なんとか課題のダンスを踊りきることができた。とはいえ、ジョギングを始める前に比べたらまだマシだが、綾香の身体には今日もかなりの疲労が植えつけられてしまったのだ。
「あと三日で筋肉痛治るとかいな」
不安げな表情をしながら、綾香はぐるぐると肩を回した。「湿布つけてテレビに出るわけにもいかんし」
「最悪そうなっても、それはそれで新しいかもしれん」
本気とも冗談ともとれない顔で南が言う。「とんこつ湿布アイドルか」
「なに適当なこと言っとるんよ!」
綾香は慌ててツッコミを入れた。「そんなことしたら、あの娘に馬鹿にされるやん!」
「あの娘?」
眉をひそめる南。
「菊田つばき! 次の仕事で共演するっちゃろ? うちの……」
彼氏って言っちゃいかんとよね。「と、友達が言っとったんよ。めちゃめちゃ性格悪いって」
「ああ」
また煙草を一本取り出しながら南は頷く。「あのアイドルにはどんどん馬鹿にされた方がいい。視聴者はお前みたいなのでも同情的になってくれるからな。おまけにあいつと共演すると、お前みたいなのでも凄く性格が良く見えてくる」
「私みたいなので悪かったね」
そう口をとがらせる綾香であったが、心の中では少し納得していた。
なるほど。ってことは、菊田つばきは汚れ役を引き受けてくれとるわけやね。けっこう良いヤツやん、なんちゃって。
「そうそう」
南がふと何かを思いついたように言った。「そういえば、社長がいい加減お前に会いたいってよ。どうする? 事務所寄ってくか?」
「えっ?」
反射的に綾香は顔を下げ、自分の身体を見た。本日は着替えるのが面倒だったので、ダンスを行った時の、汗がたっぷり染み込んだ黒ティーシャツと白ジャージという格好のままである。「き、今日も遠慮しとこうかな」
「まあ、そうだな」
うんうんと南は頷いた。「こんな汗臭いヤツを事務所の命運を賭けたアイドルですなんて紹介されたら……。いて!」
「ところでさ」
テーブルの下で南の足を踏みつけながら綾香は言った。「社長ってどんな人なん? 私見たことないっちゃけど」
「どんな人?」
うーん、と唸る南。「別に普通だな。いたって普通の人だ。さっさと足どけろ」
「ふーん」
足をどけながら、興味がなさそうな顔で綾香は相槌を打った。実際、さほど興味はなかったのだ。
と、その時、喫茶店入り口の扉が開き、スーツを着た三、四十代の男性客が一人、店内に入ってきた。
綾香はなんとなく彼を目で追ってみた。男は白髪のマスターと二、三言会話をした後、入り口近くの席にドンと腰を下ろし、こちらに顔を向けると、ハッとしたように目を見開き、片手を上げた。
「え?」と綾香は南に視線を移した。すると、南が「お疲れです」と座ったまま、男に頭を下げた。
「知ってる人?」
キョトンとした顔で、南にそう尋ねる綾香。
「あれ、社長」
「え!?」
驚いて男に視線を戻す。
あ、あの人が社長?
社長はコーヒーを運んできたマスターと再び何かを話してから、コーヒーを一口啜り、満足そうに息を吐いた。
その姿はなんというか……。普通だった。
やがて、彼は綾香の自己紹介を普通に受け、綾香を普通に激励したのであった。