40 歌姫降臨
美しいピアノの旋律を聞きながら、同時に頭の中でカウントをとり始める。そして、大きく息を吸い込んだあと、丁寧に丁寧に綾香は歌い始めた。
曲に合わせて綾香の歌声は、感傷的に、情熱的に、様々な形へとその姿を変える。
いつしか、綾香は大きなコンサートホールのステージの上に立っていた。華々しいスポットライトを浴びながら喉を震わせ、彼女は歌い続ける。
やがて、ピアノの音が静かに消える。綾香は大勢の観客たちの拍手に応えようとして両手を高くかかげてみせた。
「綾香ちゃん、綾香ちゃん」
「え?」
ボイトレインストラクター岸田に名前を呼ばれ、ようやく我に帰る綾香。サッと両手を下ろし、キョロキョロと周りを見回してみるが、そこはもちろんコンサート会場などではなく、いつものだだっ広い、ダンススタジオ『プリズム』の一室である。
か、完全にのめり込んでしまった。
只今、ボイトレの授業の真っ最中である。岸田のピアノ伴奏に合わせ、レッスンの課題曲である往年の名バラードを歌い上げたところなのだ。歌の世界に気持ちが入りすぎて、まるでコンサートホールのステージ上で歌っているかのように錯覚してしまったわけである。
あまりの恥ずかしさで、思わず顔から火が出てしまいそうになる綾香だったが、岸田はそんな彼女にパチパチ、と錯覚ではない本当の拍手を送った。
「凄いじゃん! 感動したー」
興奮した様子で岸田は言う。「もの凄く引き込まれちゃったよ。チロリちゃん、歌の才能あるね」
「え?」
思わぬ賛美の言葉に、綾香の目は点となった。そして、すぐに照れ笑いを浮かべ、頬をポリポリとかく。「そ、そうですかねー」
「うんうん。たった一ヶ月でこんなに上達するなんて、さすがは『佐世保の歌姫』と呼ばれただけのことはあるね」
「うっ」
顔面蒼白になってしまう綾香。「そ、それは忘れてください……」
『佐世保の歌姫って呼ばれてたんですよ』と豪語してみせたはいいが、全くピアノの伴奏についていけず、散々な歌姫ぶりを披露してしまった、というレッスン初日の苦い経験があるのだった。
八月もいよいよ最後の週に入り、レッスンも残すところ、今日を含めあと二回となってしまった。
もともと綾香は、音感もリズム感も持ち合わせていたため、歌についてはもうどこに出しても恥ずかしくはないという程度にまで上達していた。以前より、しっかりと主旋律を捉えることができるようになったし、発音も綺麗になった。そして、岸田さえも感動させてしまうほどの表現力をも身につけた。
そう、綾香は徐々に『佐世保の歌姫』としての秘められた才能を開花させていったのである。
ところが……。
「はい! ワンツー、ワンツー」
「はあ、はあ」
皆の前に立ち、踊る、ジャージ姿の茶髪男性インストラクターの声に合わせ、息絶え絶えになりながら、必死で手足を動かそうとする綾香。しかし、自分の思い通りに身体が動いてくれず、いつしか周りの中学生たちと全く違う振り付けとなってしまう。
「ストーップ!」
インストラクターのその言葉で、生徒たちは一斉に動きを止めた。インストラクターは、ピンと背筋を伸ばす少年少女たちの顔を見渡してから、つかつかと左端最後尾の綾香のもとまで歩み寄ってきた。「チロリちゃん」
「は、はい?」
一人だけ肩で息をしている綾香。
「振りはちゃんと覚えてるみたいだけど、君だけちょっと動きが硬いというか……。」
インストラクターは腕を組み、やや言いにくそうに言った。「体力が足りてないみたいだね。今日から一日十キロジョギングしなさい」
「え、えー!? 十キロですか?」
思わず大声を上げてしまう綾香。彼女の声が室内に響き渡る。
「そう」
厳しい表情でインストラクターはコクリと頷いた。「夏休みの授業は残りあと一回しかないんだから、最後ぐらいは皆でキチンと決めないと。次の授業までにキッチリ体力をつけておくこと」
綾香はショックを受けた。レッスンだけでも、もの凄く疲れてしまうというのに、その上ジョギングとは。
「頑張って、チロリさん」
隣に立つ女子中学生がガッツポーズを作り、笑顔で綾香にエールを送った。綾香は複雑な気持ちで彼女に顔を向け、作り笑いを浮かべてみせた。
「うん。が、頑張ってみる」
そう宣言しながらも、心の中ではやはり……。
早く九月になってくれんかなあ。
『佐世保の歌姫』にはなれても、どうやら『佐世保の舞姫』にはなれそうにない綾香であった。