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39 偵察少女

 午後六時半。電車で吉祥寺駅に降り立った池田綾香は、渋谷のコンビニで購入した透明のビニール傘を広げ、雨にもかかわらず多くの人で溢れる駅北側の大通りを、足をふらつかせながら歩いていた。

 肩に大きなスポーツバックを下げており、その中には先ほどのレッスンで着用していた汗まみれのシャツとジャージが入っている。現在は派手な色彩のワンピースという格好である。

 つ、疲れた……。

 ボイトレ、ダントレで激しくエネルギーを消費し、体力が限界に近づいていたため、本当ならすぐにでも帰宅し、眠ってしまいたい綾香であったが、今日はどうしても訪ねておきたい場所があった。

 今日行っとかんやったら、いつになるか分からんけんね。



「ん?」

 そのまま、しばらく歩いた頃、綾香は通り沿いの小さな中華料理店に目を奪われた。ふらふらと軒先に足を踏み入れる彼女。店の中から、うっすらとだが食欲をそそられる良い香りが漂ってくる。

 お、美味しそう……。

 体力と共に空腹の方も限界に近づいていたのだ。耐え切れず、店の引き戸に手をかけ、戸を開けようとする綾香。しかし、すぐにハッと思い直し、彼女はその手を離した。

 危ない危ない。ここは我慢せな。

 心の中で自分にそう言い聞かせ、軒先から離れる。そして綾香は、悲しげな瞳で店をじっと眺めた後、なんとか再び目的地に向け歩き始めた。



 先ほどの中華料理屋から更に五分ほど歩いた場所である。同じ大通り沿いの、これまた小さな、ラーメン屋『ぶるうす』の軒先に綾香は立っていた。入り口のそばにある傘立てに傘を差し込み、なんとなく深呼吸をしてから、やがてガラッと勢い良く引き戸を開ける。その瞬間「らっしゃっせー」と男性の威勢の良い声と店内を流れるブルースのBGMが綾香の耳に飛び込んできた。

 狭い店内にはカウンター席の他に、四人がけのテーブル席が一つあるのみ。食事時ということもあり、ほとんどの席はすでに埋まってしまっていたが、カウンター席の一番端が空いていたので、綾香はそこに「よいしょ」と腰を下ろした。いや、椅子が高いので腰を下ろしたという言い方は適切ではないのかもしれない。

 他の客は男性ばかりで、多くの客は物珍しそうな目で綾香を見た。実際、女性の一人客というのはこの店では珍しいのだろう。

 そんな客たちの視線に、やや頬を赤めながら、綾香はこっそりとカウンターの中を覗いた。すぐに、厨房の奥で皿洗いをする井本真一の横顔を発見する。

 お、真面目にやっとるやん。

 頭にタオルを巻き、肩口まで袖をめくったシャツを着て、ただひたすらに皿を洗う真一の表情は、綾香が今までに見たことがないほど、真剣なものであった。



 そう、今月から始めた真一の新しいアルバイトとは、ここ『ぶるうす』での調理場スタッフであった。綾香は以前より、一度この店に足を運び、真一が真面目に働いているかどうかをチェックしよう、と目論んでいたのだが、真一の勤務日になかなか時間が合わないのと、めんどくさいのとで、先送りになってしまっていた。

 とはいえ、レッスンに疲れ果て、雨にまで降られた本日も充分にめんどくさいのではあるが、黒い髪と、薄い化粧でイメチェンした自分の姿をまだ真一に見せていなかったことに気がついたため、これは良い機会だ、と決行に移したのである。



「お客さん」

 カウンターの中に立つ若い青年が綾香に笑いかけた。「ご注文はお決まりですか?」

「あ、えーっと」

 綾香は慌てて真一から目を離し、壁にかかったメニューの書かれた板を見つめた。「チ、チャーシューメン大盛りで……」

 それが、唯一彼女の腹を満たしてくれそうなメニューだったのだ。

「はいよー! チャーシューメン大盛り一丁!」

 他の店員たちに大声でメニューを伝える青年。その瞬間、店の奥の一部の客たちがかすかに涌いたことに、綾香は気がついた。

 あんま大きな声で言わんでよ! 恥ずかしかろうもん!

 また赤面する綾香。赤面しながら、もしかして今の騒ぎで、真一が自分の存在に気がついたのではないかと思い、真一に目を向けてみる。

 しかし、真一は全くこちらに目をくれず、相変わらず真剣な表情で、洗い場に向かい続けていた。

 そ、そっか。今一番忙しい時間やろうけん、それどころやないっちゃろうね。イメチェンした私を見せるのは、仕事終わってからでいいか。

 真一の勤務は、朝十時から夜七時までだと聞いている。もう、あと五分ほどで仕事から解放されるのだ。

 チャーシューメン大盛りを待つ間、綾香はじっと真一の横顔を見つめ続けた。

 朝十時からということは、休憩も含めているだろうとはいえ、九時間もの間、真一は働いていることになる。見る限りでは元気そうだが、実際はかなり疲れているのであろう。

 頑張れ、真一。

 綾香は心の中でそうエールを贈った。ただ、希望通り真面目に働いていた真一の姿に、何故か少しだけ寂しい気持ちも覚えてしまうのだった。


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