38 新たなる罠?
吉祥寺駅から徒歩五分程度、大通り沿いの小さな中華料理店の軒先にて。たくさんの車が雨水を切って走る音を聞きながら、お気に入りであるベージュのブラウスを着た矢上詩織は、腕時計をちらっと見てにんまり微笑んだ。
もうすぐ六時! 楽しみだな。
五時過ぎから天気はあいにくの雨となってしまったが、見上げる空とは裏腹に彼女の心は晴れ晴れとしていた。
専門学校が夏休みに入り、最近はアルバイトに明け暮れる日々を過ごす彼女。本日は約一週間ぶりのオフで、学校のクラスメイトであり彼女が密かに想いを寄せる相手でもある田之上裕作に誘われ、彼と一緒に夕食をとる約束をしているのだ。
それにしても……。田之上くん、遅いな。いつもなら約束の五分ぐらい前には必ず来るのに。
とその時、傘を差してこちらに猛ダッシュしてくる人物の存在に気がついた。その人物をじっと見つめる詩織。足音がバシャバシャと近づいてくるにつれ、詩織の顔は輝きを増していく。
「ゴメン! 遅くなった」
傘を閉じてから軒先に入った途端、田之上裕作は腰を折り、はあはあと息を整えた。肩から下げた大きなショルダーバッグが地面につきそうになる。
「ううん」
笑顔で首を振り、それから詩織はまた腕時計を見た。「ジャスト六時だよ。私が早く来すぎちゃっただけ」
はりきりすぎて五時半に来てしまった彼女。「とりあえず中に入ろう。私もうお腹ぺこぺこ」
奥行きが深く、細長い店内。夕食時だというのに客はまばらである。入り口から最も近い四人がけのテーブルに向かい合わせて陣取った二人は、それぞれ注文を終え、他愛のない話をしながら料理が運ばれてくるのを待っていた。
「ここって、中華料理屋っていうより、普通の定食屋さんみたいだよね」
店内を見回しながら詩織は言う。柱に龍が巻きついており、テーブルがぐるぐる回るというのが、彼女にとっての中華料理屋のイメージであるが、この店はそのどちらも該当しない。ちなみに、この店は以前学校の昼休みに、一度だけ二人で訪れたことがあった。
彼女のその言葉を聞いた田之上は、苦笑いしながら短髪の頭をかいた。
「本当はもっと高級なところに誘いたかったけど、俺には似合わないし、ここ美味しいし」
「うん、美味しいよね」
同調してみせながら、詩織はやや困惑していた。
高級なところ? 何を今更……。
田之上に誘われ、飲食店を訪れることは過去にも何度かあったが、高級な店を訪れたことなど一度もないのだ。
しばらくして、二人の前に料理が運ばれてくる。
「んん、うん。やっぱここ、美味しいね」
自身の注文した五目炒飯を一口食べてから、詩織は目の前の田之上に笑いかけた。しかし、田之上は彼女の言葉が聞こえていないかのように、全く反応を示さず、黙々と彼ご注文のタンメンをすすっている。「ここ、美味しいね。田之上くん」
再挑戦。すると田之上はようやく「え?」と顔を上げ、言った。
「あ、うん。美味しいねー、本当に」
そしてぎこちない笑顔を作る。彼の様子を見て、またも困惑する詩織。
おかしい。今日の田之上くんは何かがおかしい。
その時、詩織はあることに気がついた。
ま、前にも学校でこんなことがあったような気がする。あの時も田之上くんが遅れてきて……。あの時は確か……。あ、綾香だ!
詩織の顔が鬼の形相に変わっていく。彼女はもはや見境をなくしていた。
綾香め。今度は何だっていうの!? またしても田之上くんを利用するなんて、もう絶対に……!
「詩織ちゃん」
「え?」
田之上に突然名前を呼ばれ、詩織は我に帰った。「あ、あはは。ちょっと気に入らないヤツのこと思い出しちゃって、エヘヘ」
そして田之上の顔を見る。「へ……?」
ドキッと心音が高鳴った。田之上はいつにもなく真剣な表情で、じっと詩織を見すえていたのだ。
「食べながらでいいから聞いてほしいんだ」
彼はいつの間にかタンメンを食べ終え、箸を置いていた。
「う、うん」
眉間にしわをよせながら、詩織は頷く。
「実はその……」
うつむき、唇を噛む田之上。一生懸命言葉を絞り出そうとしている様子だ。「俺、ずっと前から詩織ちゃんのことが好きだったんだ」
ポカンと口を開け、詩織は固まった。「あの、さっき買ってきたんだけど……」
そう言って田之上は自身の隣に置いたバッグの中を探った。やがて彼が取り出したのは、シンプルなデザインのシルバーネックレスであった。「詩織ちゃんにどんなヤツが似合うか、迷ってる間に待ち合わせ時間が近づいちゃってさ。結局普通のヤツに落ち着いちゃって」
照れ隠しなのか、左の耳たぶを指でつまみ、うつむく田之上。
詩織はというと、そんな彼をぼうっと見つめたまま、相変わらず固まったままなのであった。