37 レッスンな日々
「はい。それじゃあ、チロリちゃん。次はこの音ね」
岸田が鍵盤を叩くと同時に、ピアノからポンと可愛らしい音が飛び出す。綾香はふう、とお腹まで息を吸い込むと、ピアノの音と全く同じ音階で、長く声を響かせた。
「ああー」
「はーい、ストップ」
岸田のその指示に従い。発声を止める綾香。「だんだん良くなってきたね。この調子ならすぐにレコーディングだってできそう」
「本当ですか?」
綾香は照れ笑いを浮かべ、頬をポリポリとかいた。
八月中旬の午後四時前、渋谷某所のダンススタジオ『プリズム』内の二室のうちの一室。マネージャー南の紹介で、綾香は先週よりここに通い、トレーニングに励んでいた。トレーニングは週に二回で、今日は三回目のトレーニングである。
彼女のボイトレを受け持つのは、女性インストラクターの岸田美並。大きな赤縁の眼鏡をかけていることから、綾香は密かに『アラレちゃん』とあだ名をつけている。とはいっても、肌のツヤや指先のしわを見る限り、おそらく三、四十代である。ちなみに、髪型は、長く黒い髪を後頭部で束ねたポニーテイルだ。
彼女の経歴についてはまるで知らない綾香であったが、彼女が時折聞かせてくれるミュージカル女優のような歌声や、素人でも分かる卓越したピアノの腕前からして『この人は只者じゃない』と勝手に予想していた。
「それじゃあ、今日はここまでね」
岸田はそう言うと、ピアノの鍵盤のふたをそっと閉め、椅子から立ち上がった。「寝る前に腹筋三十回。忘れずにね」
「はーい」
資料を右腕にかかえ、左手を小さく振りながら部屋を退室する岸田。綾香は頭を下げて彼女を見送ると、大きく背伸びをし、ふうと息を吐いた。それから室内を見渡してみる。
だだっ広い三十畳ほどのフロアである。たった今岸田が弾いていたピアノ以外に、特に目につくものはない。本来はダンススタジオだということもあり、四方の壁のうち、一面は鏡張りとなっている。
あっ……。
ふと思い立ち、綾香は鏡の前まで歩いた。そして鏡を通し、自分の全身を眺めてみる。
胸元に大きくアルファベットの文字が書かれた黒いティーシャツと、白のジャージパンツ。動きやすいが、なんとも飾りっ気のないスタイルである。
続いて、鏡までの距離を縮め、片手で髪の毛をつまみ上げる。
前日に、イメチェンを図ろうと美容室で髪を黒く染め直し、ストレートパーマをあてたばかりで、以前より頭が寂しく感じられる。
ただ、服装や髪型もそうなのだが、それ以上に気になるのはやはり……。
更に、鏡までの距離を縮める綾香。
うん。まあまあイケとうやん。
本日彼女はノーメイクとまではいかないまでも、それぞれの化粧品の使用量を極限まで抑えた、薄化粧であった。その理由は前述のイメチェンだ。ただ、本当なら以前デビューイベントの日に南が施してくれたようなナチュラルメイクに挑戦したかったが、どうも上手くいかず、結局ただの薄化粧に落ち着いたのだ。
綾香は再び鏡との距離を広げ、左手を腰にあて、右手をピースにして額へあてるという、チロリポーズをとってみた。その行動に深い意味はない。
「お疲れさまでーす!」
突然スタジオ内に響いたその挨拶に驚き、綾香はポーズを決めたまま、ビクンと身体を震わせた。そして、すぐにポーズを解き、後ろを振り返る。
「お、お疲れさまですう」
カラフルな服を着た二人の少女が、部屋の隅でストレッチを行っているところであった。
い、いつからおったん……?
少女たちにおそるおそる近づく。すると、少女のうちの一人が身を屈めながら顔を上げ、綾香に言った。
「チロリさん。チロリさんはもうストレッチ終わったんですか?」
「あ、ううん」
首を振る綾香。「ボイトレ終わったばかりで、ダントレ始まるまでちょっと休憩しとったんよ」
そう、今からボイストレーニングに続き、今度はダンストレーニングが始まるのだ。個人レッスン契約のボイトレとは違い、ダントレでは綾香も他の生徒に混じってレッスンを受けることになっていた。
「はあ……」
少女たちに聞こえないように綾香は溜息を吐いた。彼女はボイトレに比べ、あまりダントレを気に入ってはいないのだ。
なぜなら、彼女以外の生徒は皆、夏休み中の中学生ばかりだからである。
渋々と二人の女子中学生に並び、ストレッチを開始する綾香。その時、今しがた綾香に話しかけた方の少女が、薄らと笑みを浮かべながら一言。
「さっきのポーズって、チロリさんのオリジナルダンスなんですか?」
「……」
帰りたい。