36 ニート卒業
真一は自宅で横になりながら、携帯電話を耳に当てていた。
「あ、はい。ありがとうございます。はい。明日からですね。よろしくお願いします」
通話を終え、カシャっと携帯を閉じ、テーブルの上に置く。そして真一は小さく「よし」と呟いた。
前日に受けたアルバイト面接の結果報告であった。結果は見事合格。明日より早速研修開始だという。
綾香にも報告しておくか。あいつ、まだ打ち合わせ中かな。
本日、午後三時から事務所で打ち合わせがある、と彼女は言っていた。ただいまの時刻は午後五時。打ち合わせの程度にもよるが、そろそろ終えていてもおかしくはない。
よし、メールだけでもしとくか。
そう考え身体を起こし、また携帯を手に取った時だ。玄関先からガタッと音が響き、扉の開く気配がした。どうやら向こうからやってきてくれたらしい。
「やばいやばいやばいやばい!」
真一のいる洋室に来るなり、なぜかノーメイクの綾香は、やかましくそう言うのだった。「真一! マジでやばいっちゃん」
「なんだよ? お前のその顔の方がよっぽどやべえよ」
真一はうんざりとして金髪の頭をワシワシとかいた。その瞬間綾香にゲシッと頭を蹴られる。
「冗談言っとる場合じゃないよ」
真一の隣に座り込み、冗談のような顔の綾香はわめいた。「私の給料来月まで出んっちゃけん、今月の食費がないばい!」
「食費……?」
眉をひそめる真一。
「そう」
綾香が頷く。「仕送りで、うちの家賃と光熱費とあんたの家賃と光熱費と……。そこまではなんとかなるけど、食費その他が残らんとよ」
「だ、だって……。『キャンユー』の給料がまだだろ?」
先月まで綾香が週六日でアルバイトしていた安売りチェーン店である。
「……」
キョトンとした顔で『あっ』と口を開き、固まる綾香。どうやら『キャンユー』のことを忘れていたらしい。
「そんなことよりさ」
例の話を報告。「俺、バイト受かったんだぜ。明日から研修だって」
「え?」
心底驚いたように目を見開く綾香。「どんなバイト?」
「飲食業」
「ふーん……」
そう相槌を打ち、彼女はおもむろに立ち上がった。そしてダイニングまで歩き、冷蔵庫を開ける。「来月はけっこう収入も安定するかな」
「おう。もう貧困生活はこりごりだぜ」
真一も立ち上がり、綾香のそばへ寄った。
「でもあんた」
冷蔵庫から烏龍茶を取り出しながら、綾香は言う。「バイトじゃなくって、そろそろ就職とかせないかんっちゃないと?」
「就職?」
真一は目を丸め、彼女の横顔を見た。「まあ、そんな焦ることもないだろ」
「だって……」
そこで言葉を止め、綾香は烏龍茶をラッパ飲みした。「ぷはあ……。そろそろさ。うちの親に真一を紹介せんといかんかろうし」
佐世保に住む綾香の両親は、真一という恋人の存在も、綾香が専門学校をやめたという事実も知らない。仕送りは本来、一人娘である綾香の生活費と学費にあてるべきものなのである。
「紹介なあ……」
綾香から烏龍茶を受け取り、それを手に持ちながら、真一は考え込んだ。
さすがにフリーターじゃ、綾香の親に合わす顔がねえか。
そして綾香と同じように烏龍茶をラッパ飲みし、ぷはあと一息。「まあ、社員昇格制度もあるらしいから。とりあえず今度の仕事頑張ってみるわ」
しらーっと横目で真一を見る綾香。
「本当に頑張ってよ」
「……。ああ、お前もな」
そう言って頷いてみせながらも、真一は複雑な心境であった。
やがて夜が更け、さっさと一人で洋室のフローリングの床に眠りこけてしまった綾香の寝顔を見ながら、真一は考えごとをしていた。
こいつはちゃんと将来のこととか考えてんのに、俺はいったい何やってたんだろうな。
綾香の頬をそおっと撫でる。眉間にしわを寄せ、「んん」と声を漏らす彼女。
アイドルか……。
先日変装をして参加した、彼女のデビューイベントを思い出す。
マイクを使わずに挨拶をし、カビリオンズを困らせてしまう綾川チロリ。大勢の客の前で一発ギャグをし、見事に外してしまう綾川チロリ。それでも、真一の目にはそんな彼女の姿が何より輝いて見えた。
綾香の身体に優しくタオルケットを被せながら、真一は思う。
こいつにとって、俺は邪魔になるだけの存在かもしれないな。