35 打ち合わせ
喫茶店『ビリーブ』。綾香と南は、前回綾香がアイドルデビューを決めた日と同じように、店内の一番奥の席で向かい合い、座っていた。どうやらSDPの打ち合わせは、この店で行うというのが習慣のようである。
革製の鞄から、封筒を取り出し、その封筒から、更に書類を取り出す南。書類に目を通しながら「さて」と彼は言った。
「来月から忙しくなるぞ。ラジオにテレビに」
「ラジオにテレビに……」
彼の言葉を繰り返す綾香。そして自分がラジオにテレビに出演しているところを想像しようとするも、どうも上手くいかない。「うーん、一昨日のイベントよりも難しそうやね」
「あんなもん、比較にならん」
そう言って南はテーブルの上に書類を置き、今度は胸ポケットから煙草の箱を取り出した。「あれはSDP主催のイベントだからな。言わばホームのイベントだ」
煙草を一本くわえ、百円ライターで火をつける。「これからはスタッフも共演者もアウェイばかり。誰もお前を助けてくれんぞ」
「うっ……!」
そういえば、先日のイベントでは随分とカビリオンズに助けられたものだ。
「俺も一応指示はするが、あくまで演者はお前だ。『どうすれば視聴者の心を捉えられるか』『どうすればスタッフや共演者に気に入ってもらえるか』本番中もそれを常に考えとけ。アイドルはあくまで『魅せる』仕事だ。その日の仕事に自分が納得しても、相手が納得せんことには全く意味がない」
はあ、と深い溜息を吐く綾香。
やっぱりアイドルって難しいっちゃね。失敗せんだけじゃ、失敗なんかな。
「あのさ」
ふと気がつき、綾香は言った。「来月から忙しいって言うけど、今月はもうなんもないと? まだ今月始まったばかりやん」
紫煙をふうと吐き出し、南は頷く。
「仕事はない。ただレッスンを受けてもらう」
「レッスン?」
それは綾香にとって全く予想していなかったことだ。「レッスンって……。なんの?」
「主にボイストレーニングだ。舞台やテレビ、それぞれの発声の仕方やその他諸々、あと歌の練習もしてもらう」
「歌!?」
パッと明るい表情になる綾香。「ってことは、歌手デビューするってこと?」
「いずれはな」
南のその言葉を聞き、綾香は心の中で歓喜の声を上げた。
やった! やったやった! まさか歌手デビューできるなんて。
実は小さい頃から歌うことが大好きだった彼女。長崎在住時代、本気で歌手に憧れていた時期もあったのだ。
「歌やったら心配せんでよかばい。私、カラオケめっちゃ得意やもん」
自信満々で能書きをたれる彼女。「地元の友達からは『佐世保の歌姫』とか言われとったんよ」
「カラオケとはまた違うぞ」
ふん、と鼻で笑う南。「それに音感やリズム感がしっかりしているだけじゃダメだ。発音や表現力、そういった点も含め、レベルアップさせとけ」
「レッスン代は事務所持ちなんよね?」
気になっていたことを尋ねる綾香。
「ああ、心配ご無用だ」
それならまあ、レッスン受けて損はないか……。ん? レッスン代?
その時、彼女は大事なことを思い出したのであった。
「あー!」
大声で叫び、立ち上がる綾香。そして右手を南の前に差し出す。「給料は? 一昨日のイベントのギャラ貰ってないよ!」
「給料?」
眉をひそめる南。「アホか。うちは日払いじゃないし、歩合制でもないぞ。給料は月末締めの二十五日払いだ。ちゃんと出るから安心しろ」
お、遅い……。
「ちょっと待ってよ。月末締めの二十五日ってことは」
視線を宙に漂わせ、綾香は考える。「初任給は来月の二十五日ってこと?」
ふう、とまた紫煙を吐き出しながら、南は頷いた。
「よくできました」
そしてパチパチといい加減な拍手をする。「お前でもそれぐらいのことは分かるんだな。立派なもんだ」
彼は明らかに喧嘩を売っているが、綾香は無視をした。なぜなら、それどころではないからだ。
「来月の二十五日……」
綾香の顔はみるみるうちに青ざめていく。
つまり、私のと、真一のを合わせて、今月の収入は……。
答えはもちろん……。いや、先月の『キャンユー』の給料が出るので、ゼロではないのだが、綾香はそのことをすっかり忘れていた。