34 すっぴん少女
えーっと、四階っと。
ドア横のボタンをポチッと押す。すぐにドアが開き、綾香はエレベーターに乗りこんだ。
南に言われたとおり、デビューイベントから二日後の午後三時に大谷ビルを訪れた綾香。
彼女の様子はいつもと違っていた。ピンクのキャミソール(相変わらず汗だくだ)の上から羽織った、シースルーの白いブラウス。大胆に足を露出させた薄手のホットパンツ。そして、肩に下げたハンドバッグ……。いや、服装の話ではない。彼女はノーメイクであった。
午前中に起床してから、家でダラダラと過ごしていた彼女だったが、昼食を食べた後に『少しだけ昼寝しよう』と横になってしまったのが運の尽き、目が覚めたときには、もう二時半を回っており、メイクもせずに家を飛び出してきたというわけである。
ドアが開き、カツンカツンと足音をたて(ハイヒールではなく、厚底のサンダルである)、エレベーターを出る綾香。そして、目の前に現れた二つの扉のうち、一つのドアノブを掴み、それをガチャと回す。
二十畳程度の広さだ。いくつものデスクが並べられ、どのデスクにも書類やファイルなどが雑然と置かれている。一見、一般企業のオフィスと何ら変わりはない。しかし、間違いなくここはSDP、芸能事務所である。
実は、先月タレント契約をした際に綾香は一度ここを訪れていた。
キョロキョロと周囲を見回しながら、カツンカツンと歩き出す彼女。事務所内にはネクタイを締めた男が数人おり、それぞれパソコンのディスプレイに向かっていたり、電話をしていたり、している。
続いて部屋の奥に目をやる。そこにスキンヘッドとサングラス、それに黒スーツという、相変わらずの目立つ出で立ちで、黙々とパソコンのキーボードを打つ南の姿があった。
彼のもとへ向かおうとしたその時、突然誰かに話しかけられる。
「誰に用事?」
髪をスポーツ刈りにした若い男である。彼は両手を頭の後ろで組み、椅子の背もたれに、背中を寄りかからせて座っていた。
「あ、あの南さんに……」
そう言って綾香は、奥のデスクに座る南を指差す。
「ああ」
納得したように頷く男。手を解き、姿勢を正しながら、綾香の顔をまじまじと見つめる。「じゃあ、君がえーっと……。チロリちゃん?」
複雑そうに苦笑する彼。
「あんまり見ないでください……」
顔を背け、綾香は言った。
「ん?」
綾香がすぐそばまで近づいたところで、ようやく彼女に目を向ける南。そして口元に淡い笑みを浮かべる。「はて、どちらさんだったかな」
「分かっとるくせに!」
すっぴん顔をムッとさせる綾香。「あんたが三時なんて中途半端な時間指定するけん、こんなことになったっちゃけんね」
「ふん、この業界じゃもっと中途半端な時間を指定されることだってあるぞ」
そう言って、南は座ったまま背伸びをした。「まあ、今日のところはいい。ちゃんといつでも起きられるように生活態度を改めとけ」
「……。はい」
「よし」
バンと両手で自分の膝を叩き、南は立ち上がった。「ここじゃなんだから『ビリーブ』行くぞ」
しかし、すぐに「いや……」と眉間にしわを寄せ、考え込む彼。「ちょっと待てよ。その前に」
「その前に? なん?」
眉をひそめる綾香。
「社長にもお前を紹介しとくかな」
そう言って南は壁に顔を向けた。エレベーターから降りて、すぐに現れる二つの扉のうちの、こちらじゃないもう一つの扉が、社長の部屋へ続くものだと、以前綾香は彼に聞かされたことがある。すなわち、彼が顔を向けたのは社長の部屋の方向である。
「ええ? でも……」
社長に紹介されることに綾香はあまり乗り気ではない。その理由は……。「せめてちゃんと化粧してから会いたいな」
「ん? まあ、それもそうだな」
うんうんと頷く南。「いきなりこんなノッペリ平面顔を『こいつが我が事務所の命運を握る期待の星です』なんて紹介されたら、社長ショックで寝込んじまうかもしれんしな。やっぱり今度にす……。いて!」
綾香の厚底キックが彼の足に炸裂したのだった。