33 一日の終わりに
綾香が帰ってきたのは自宅ではなく、松庵の真一のアパートであった。彼の部屋の扉を開けようとするも、鍵がかかっており開かない。呼び鈴を鳴らしても応答はない。
なんよ。イベント来んかったくせに、どこほっつき歩いとうと?
心の中でそうぼやきつつ、綾香はジーパンのお尻ポケットの中からジャラジャラ、と鍵の束を取り出し、その一つを鍵穴に差し込んだ。それはこの部屋の合鍵であった。
部屋の中は真っ暗で、人の気配はない。やはり真一は外出しているようだ。綾香は一直線にダイニングへ向かい、冷蔵庫から2Lペットの烏龍茶を取り出すと、それをラッパ飲みした。
「ぷはあっ」
そして、ダイニングと隣合った洋室まで歩くと、その中心にあるガラス製のテーブルに茶を置き、フローリングの床にドスンと腰を下ろした。灯りをつけようとはしない。
私、アイドルなんてやっていけるっちゃろうか。
はあ、と溜息を吐く。
彼女はデビューイベントの酷評アンケートのせいで、完全に自信を失くしてしまっていた。好評の意見もあったが、一つの酷評はそれらを帳消しにしてしまう。
悩みやすいのは彼女の悪い癖である。こんな時は真一と口喧嘩(時には力技も)でもして、気を紛らわすのが一番なのだが……。
アイツもおらんし、帰ろうかな。
そう考え、彼女が立ち上がろうとした時、ガチャとドアノブの回る音が響いた。
「あん? 綾香か?」
玄関先から真一の声が聞こえる。綾香はあえて返事をしなかった。ドアを閉め、部屋に上がる真一。そして綾香のもとへ歩いてくる。「なんだよ、電気もつけないで。イベントとやらは終わったのか?」
「どこ行っとったん?」
床に座ったまま、トゲのある声色でそう言いながら、真一を睨みつける綾香。早くも臨戦態勢である。
「ど、どこって……」
被っていた帽子を取り、頭をポリポリとかく真一。「友達とメシ食ってただけだよ」
「私のデビューイベントの日に?」
彼から目を離し、綾香はうつむいた。そして壁に寄りかかり、膝を抱える。
「馬鹿だな」
パチッと壁のスイッチを押しながら真一は笑う。「そんなもんに俺様の貴重な金と時間を使うわけねえだろうが。ハッハッハ……。ん?」
部屋が明るくなったことで、ようやく綾香の様子がおかしいことに気がついたらしい。
「そうやもんね。あんたはそうゆう人間やもんね」
「なんだよ」
ショルダーバッグを床に置き、真一も座り込んだ。「やけに落ち込んでるじゃねえか。イベントは失敗に終わったか?」
綾香は顔を上げ、また彼を睨みつけた。しかし、すぐに視線を床に移す。
なんだか、彼と口喧嘩をする元気もなくなってしまった。
「上手くいくわけなかったんよ」
思わず愚痴をこぼしてしまう。「結局アイドルなんて顔が良くてナンボやん。それなのにトークとかも全然できんし、一発ギャグもすべるし。なんで南さん、私なんかデビューさせようと思ったっちゃろ」
うな垂れたまま、上目づかいでまた真一を見る。「あんたもそう思うやろ。あんた、アイドルとか見慣れとうけん、私なんか三流アイドルもいいとこって感じ? ねえってば。ん……?」
なぜか綾香を見つめたまま、一言も発しようとしない真一。 「真一……?」
一秒、二秒、三秒と二人は互いに見つめあった。やがて綾香はハッと気がつく。「あっ! これ?」
そう言って自分の顔を指差す。
「あ、いや……」
我に帰ったように、彼女から目を背ける真一。「なんか雰囲気違うな、って」
「南さんって、プロ級の人にやってもらったけん」
照れ笑いを浮かべながら綾香は言った。「私はけっこう気にいっとるんやけど、変かな」
それは南に施されたナチュラルメイクであった。
「いや、別に変じゃねえと思う」
また綾香に視線を戻す真一。
「そ、そう……?」
そして再び二人は見つめあう。やがて、真一が顔を近づけてきたことに気がつき、綾香はそっと、まぶたを閉じた。
唇に真一の唇の感触。真一の息づかいが荒くなり、それに伴い綾香も……。
「ち、ちょっと待って!」
真一の指先が自分の胸元に触れた瞬間、綾香はそう言って、彼を突き放した。「先にシャワー浴びんと。今日もいっぱい汗かいたけん」
「ああ」
苦笑する真一。「今日も暑かったからな。お前なら汗ダラダラだったろ」
「ふん、まあね」
綾香も笑う。笑いながら彼女は思った。
とりあえず、できるところまでやってみようかな。