31 ヒゲの下には
「お待たせいたしました、ご主人さま」
髪をツインテールにし、エプロンドレスを身にまとった若い女性店員が、テーブルの上にストローのささった二つのアイスコーヒーを並べた。橘川はさっそくその一つを手に取り、ストローに口をつける。
「ごゆっくりどうぞ」
店員は盆を両手にニッコリと微笑み、頭を下げると、優雅な動作で身をひるがえし、店の奥へと帰っていった。
「なんだよ。メイド喫茶っつっても、店員がメイドの格好してて、『ご主人さま』って言うだけなんだな」
向かいに座るヒゲ男が、つまらなそうに言う。彼はだらしくなく背中を椅子の背もたれに寄りかからせていた。
「中にはもっとディープな店もありますよ」
一方、背中を丸め、テーブルにひじを置いている橘川。こちらもこちらでだらしがない。「この店は店員さんが皆ツインテールなのがウリみたいです」
「全然メイドと関係ねえな」
店内を見回しながら、ヒゲ男は苦笑した。
彼らは『秋葉原ポケットルーム』から徒歩五分の場所にある、メイド喫茶『ツインテール』にいた。
綾川チロリの出番が終わってすぐに、二人は揃って『秋葉原ポケットルーム』を出た。そしてそのまま帰ろうとするヒゲ男を、橘川が引きとめた。
途中でホールを退場しようとしかけた自分を引きとめ、綾川チロリというアイドルにめぐり合わせてくれたことに対し、橘川はどうしても彼に礼をしたかったのである。
そして、礼をしたいと同時に、話も聞きたかった。
ホールでの彼の様子が、まるで彼がチロリを始めから知っていたかのように、橘川には見えた。ひょっとしたらチロリについて色々な話が聞けるかもしれない、と彼は考えたのだ。
そう、彼は完全に綾川チロリに心を奪われてしまったのである。チロリの何に魅力を感じるのか、彼自身にもよく分からない。今までお笑い芸人ばかりを追いかけていた彼にとって、初めて生で見たアイドルという存在が、新鮮に見えたのかもしれない。
「奢りますのでどこかの店に入りましょう」という彼の誘いに、最初は渋っていたヒゲ男だったが「じゃあ、メイド喫茶なら考えてやってもいいぜ」と結局、乗ってくれたのだった。
それにしても……。
橘川はストローをくわえながら、気づかれないように男の顔を垣間見た。
この人……。ヒゲは立派だけど、肌は明らかに若いよな。おまけに金髪だし。
暗いホールの中ではよく見えなかったが、彼は金色に染めた髪を後ろで結び、その上に帽子を被っていたのだ。
「あ、あの……」
思いきって尋ねてみる。「歳はお幾つなんですか?」
「歳?」
眉をひそめ、そう聞き返すも、すぐに「ああ」と頷くヒゲ男。「えーっと。さ、三十五とか……。その辺だ」
「三十五?」
今度は橘川が眉をひそめる。そして男から目を離し、一人考え込む。
三十五って……。本当か? 俺と同い年ぐらいにも見えるぞ。でも、確かにそれぐらいの歳で若く見える人はいるし。カビリオンズだってそうだよな……。
そう納得しかけた時、ヒゲ男がふうと溜息をつき、チッと舌打をした。
「分かったよ」
「え?」
キョトンとした顔になる橘川。そんな彼を気にせず、男は帽子を取り、サングラスを外し、そしてヒゲまでもをビリビリと剥がし始めた。「え? え?」
つ、付けヒゲ……?
何がなんだか分からない。橘川は、ただただその光景をうろたえながら見つめるばかりである。
やがて男は、着けていた小道具たちをテーブルの隅に置き、「ほらよ」と不貞腐れたような口調で言った。
口をあんぐりと開ける橘川。
たった今までヒゲ男だった人物は、奇麗なマスクを持った、若い青年に変身してしまったのである。
「変装……」
数秒の沈黙の後、橘川はハッと気がつき、口を開いた。「変装してたんですか!?」
「まあな」
再び帽子のみを被る元ヒゲ男。「ちょっと事情があってよ。まあ、そんなことよりお前、なんて名前だ?」
「え? 橘川ですけど」
「そうか」
そう言って彼は右手を差し出す。「俺は井本って言うんだ。同じ綾川チロリファン同士仲良くしようぜ、橘川」
そしてニヤリと笑う。
「は、はあ……」
頭を混乱させながらも、橘川も右手を出し、彼と握手を交わした。
やっぱり、この人とは関わらない方が良かったのだろうか……。