2 命には代えられない
池田綾香にとって学校は、憧れの東京と故郷、長崎とを繋ぐ架け橋に過ぎなかった。彼女が通っていたのは情報工学の専門学校であったが、たとえそれが美容師の専門学校だったとしても、獣医学の専門学校だったとしても、大した違いではなかった。
そうゆう意味では今回の退学は必然といえるかもしれない。
ファーストフード店を出て、再び渋谷のセンター街を歩き出す綾香と詩織。しかし、ものの一分程度で綾香が立ち止まる。
「もうダメ。やっぱり暑すぎる」
汗を滴らせながら弱音を吐く綾香に、詩織はまた溜息を吐いた。
「今日は綾香を元気づける為に誘ったんだからさ。それなのに、ちょっと歩くたびに店に入ってたら、ゆっくり買い物もできないじゃん」
その言葉に、綾香はしょんぼりと肩を落としながらも、丁度目の前にあったケーキ屋を指差し
「じ、じゃあ、最後にもう一軒だけ! お願い」
と再び詩織に懇願した。
「ダーメ。ほら、行くよ」
「あーん、詩織」
詩織は綾香をおいて、ずんずんと先へ向かってしまう。綾香はよろよろの足どりで、彼女を必死に追いかける。そして、ようやく詩織に追いついた、その時だった。
「すみません。ちょっとお時間よろしいですか?」
突然、横から声をかけられたのだ。
低く、深みのある男の声。綾香と詩織は、ほぼ同時に声のした方を振り向いた。
「!?」
そこに黒いスーツ姿の大男がいた。綾香はたじろいで、一歩下がると、道行く青年にぶつかってしまった。青年に平謝りしながらも、男から目を離せない彼女。
彼女が狼狽するのも無理はない。男はスキンヘッドにサングラスという、いかつい風貌をしていたからだ。歳は分からない。二十代にも見えれば、四十代にも見える。
「な、なんでしょう」
詩織が尋ねる。彼女も少し声が震えていた。
「私、こうゆう者なんですが……」
男は胸のポケットから名刺を取り出した。詩織がおそるおそるそれを受け取り、そこに書かれている文を読み上げた。
「サニーダイヤモンドプロダクション、南吾郎……? 芸能事務所の方ですか?」
「芸能事務所?」
眉をひそめる綾香。「そんなの聞いたことないなー」
「まだまだ新鋭の事務所でしてね」
二度、頷きながら男はサングラスを整える。「『カビリオンズ』や『内藤ちえ美』が所属しております」
顔を見合わせる二人。そしてお互いに首を振った。もちろん、その所属タレントの名前も聞いたことがない。代表して詩織がまた尋ねた。
「その芸能事務所さんが私たちに何の用でしょう」
実はその疑問の答えに、綾香はある程度の予想を立てていた。おそらく詩織も同じであろうと、彼女は考える。
「ええ、率直に申し上げます」
男は再び、人差し指でサングラスを整えた。「芸能界に興味はありませんか?」
そして、口元にニヤリと不気味な笑みを浮かべるのだった。
次の瞬間、綾香は詩織の手を引き、渋谷センター街の中を全力疾走していた。
百メートルほど走ったところで、二人はようやく立ち止まった。そして膝に手をつき、はあはあ、と並んで息を整える。
「ど、どうしたの? 綾香。急に走り出して……」
先に顔を上げた詩織が言った。続いて綾香も顔を上げる。
「あれはヤバイって! あんな不気味な顔できるヤツにはホイホイついてっちゃいかんって! あいつが人を殺したことがないわけないやん!」
無茶苦茶なことを言う綾香。
「さっきまであんなにバテてたくせに」
ショルダーバッグの中から黄色いハンカチを取り出しながら、詩織は言う。「まだ元気残ってたんだね」
そして額にハンカチをあてながら笑った。続いてそのハンカチを綾香に差し出す。
「いやいや」
綾香もハンカチで顔を拭う。「命には代えられんよ」
ハンカチは詩織のもとへ帰った。