24 階段の先には
外からは見えなかったが、エレベーターホールの脇に、地下へと伸びる急な階段があった。そして、綾香の頭よりやや上の位置、階段入り口の少し手前の壁に『秋葉原ポケットルーム』という文字の並んだ看板が掛けられてある。その看板を見上げながら、彼女は大きく深呼吸をした。
ここから降りればいいっちゃね。
薄暗く、狭い通路だった。足元をしっかりと確認しながら、一歩一歩慎重に階段を下っていく。
やがて階段が平地に変わり、目の前に扉が現れた。扉には、またまた『秋葉原ポケットルーム』の文字。そして開場前なだけあって『関係者以外立ち入り禁止』の文字。
わ、私は関係者やもんね。よし……!
意を決し、扉を開ける。同時に、パッと視界が開け、身体中に涼しげな風を感じた。どうやら、しっかりと空調が利いているようである。
「ここが……」
キョロキョロとその空間を見回しながら、綾香は思わず一人呟いていた。「ここが、秋葉原ポケットルーム?」
二十畳足らずのフロアの向こうに、無人のステージが見える。オレンジ色の心地よい照明が、スピーカーやマイクスタンドといった機材たちの影を、ぼんやりと浮かび上がらせていた。
「ちょっとちょっと」
突然肩を叩かれ、綾香はハッとして振り向いた。そこに、茶色の髪を腰ほどまでに伸ばした、三、四十代ぐらいの中年男性の姿があった。訝しげな顔で綾香を見る、彼の後ろにも『秋葉原ポケットルーム』のスタッフと思われる男性が数人いた。
「あ、えーっと、綾……。えーと」
自己紹介しようとするも自分の芸名をど忘れしてしまう綾香。綾川チロリ、である。
「あなた、綾川チロリちゃん?」
相手に先に言われてしまった。
「あ、ハイ! それです」
「それって何よ」
腕を組み、呆れたような表情を浮かべる男。綾香はその男の顔をまじまじと見つめた。
「……」
「ん? あたしの顔に何かついてる?」
こ、この人化粧してる……。
いわゆるオネエ系の方らしかった。
『彼』はこのイベントハウスのマスターで、三沢と名乗った。彼に連れられ、ステージ脇の細い通路を歩く綾香。すぐに『楽屋』と書かれたドアに到着する。
「それにしても」
ドアの前で立ち止まり、値踏みするような目で綾香の全身を見ながら、三沢は言う。「随分と汗っかきな今世紀最高のアイドルねえ……」
少しムッとする綾香。
「そんなん」
彼女はツンと顔を背けた。「勝手にあんなポスター作ったヤツが悪いんです。私、自分でそんなこと一度も思ったことないですから」
「怒らないで。冗談よ、冗談」
ホホホと笑い、それから三沢は目の前のドアを指し示した。「それじゃあ、とりあえずリハーサルまでここで待っててね。カビリオンズも中にいるから」
それだけ言い残し、彼はフロアの方へ、またホホホと笑いながら戻っていった。
カビリオンズ……。あのポスターに映っていた二人組か。
ドアに書かれた『楽屋』という文字を見つめながら、綾香は若干の緊張を覚えていた。
お笑い芸人っていっても、一応事務所の先輩なんよね。キチンと挨拶せんと……。
「こんにちはー。いや、違うか。初めましてー、新人アイドルの綾谷……川チロリでーす。……。いや、お疲れさまです、かな普通」
小声で挨拶の練習をする彼女。
あー、もう! どうにでもなれ!
覚悟を決め、ドアノブをつかみ、思いっきり引く。バタンと音を立てドアが開き、そこに先ほどポスターで見た二つの顔が並んでいるのを確認すると、彼女は深く息を吸い込み、挨拶を始めた。
「こんにちわー、じゃなくてお疲れさまでしたー! 今日からお世話になります。池田……。綾川チロリでーす! えーっと……。どうもでしたー!」
バタン。
そしてまた彼女はドアを閉めたのであった。