70 舞台裏
楽屋には四人の男女がいた。椅子に座るのは矢上詩織と池田綾香。詩織の恋人、田之上裕作と綾香のマネージャー、南吾郎は壁に寄りかかり立っていた。彼らは皆、頭を抱えていた。必死に考えを巡らせる中、詩織はその意識の片隅に何やら騒がしい音を聞いた。
「待てー!」
バタバタとした足音に続いて男の叫び声。ホールへ続く廊下から、数人がこちらへ駆けてきているらしい。他の者も気がついたようだ。四人の視線が申し合わせたようにドアへ集中する。
やがてドアが開いた。そこに現れた男の姿を見て、最初に声を上げたのは詩織だった。
「真一さん!」
「あ、綾香……」
ぜえぜえと息を切らしながら井本真一は部屋の中を見回す。そして、詩織と同じように目を丸めたままの綾香にピントを合わせ、一直線に歩いた。と、その時、彼を追いかけてきた警備員に羽交い絞めにされてしまう。格闘技経験者なのか、別の警備員がファイティングポーズを取りながら前へと回り込む。「わー! ちょっと」
「あー、やめてください、やめてください」
綾香が慌てて立ち上がった。衣装とは違ったラフなティーシャツとハーフパンツを着用している。華麗な身のこなしで真一のもとへ駆け寄り、二人の警備員に説明する。「知り合いなんです。許してやってください」
「そ、そうなんですか」
羽交い絞めにしていた警備員が口もとに笑みを浮かべながら真一を解放した。バランスを崩し倒れ込む真一。「いやー、やたらと興奮してたんで、てっきり暴走したファンの方かと」
警備員が去り、全員の視線が、ひざまづく綾香と真一に釘づけとなった。
「せっかくそれらしい通路を探し出したのに、なかなか通してもらえなかったから強行手段を使っちまったぜ」
綾香に笑いかけながら真一は言った。「なんとか間に合ったみたいだな」
「真一……いったい何を」
眉をひそめて真一を見る綾香。笑みをフッと消し去り、真一は真剣なまなざしを綾香に向けた。
「綾香、俺が悪かった。俺が悪かったから引退なんてすんな」
「へ?」
キョトンとした表情になる綾香。「なんで知っとうと?」
「まあ、とある事情で」
「ふーん」
そんな答えで納得したらいい。綾香はうんうんと頷いた。「ま、その話はもう忘れていいけん。私、やっぱり引退するのやめにした」
「は?」
真一は狐につままれたような顔になった。
詩織が田之上を連れて、関係者以外立ち入り禁止の通路を抜け、真一と同じ目的でこの楽屋まで来たのは、今からつい五分前ほどのことだった。もっとも彼女たちの場合は場所を確認してあったし、事前に話が通っていたため、もっと穏便に通路を抜けることができたが。
楽屋の前に立っていた南に挨拶をしてからノックもなしに楽屋へ入ると、綾香は着替え中だったらしく、上下下着姿だった。
『ギャー! エッチー』
詩織はサッと田之上の視界を手の平で隠するとほぼ同時に言った。
『あんた、まさか本当に引退なんかするつもりじゃないでしょうねえ』
あんなコンサートじゃ、お客さんは納得してくれないよ、と付け加えようとした矢先、綾香は全く悪びれるそぶりもなくこう答えた。
『引退? 何のこと?』
まさに今の真一と同じような顔をした詩織と田之上を横目に、ティーシャツをかぶりながら彼女は続けた。『雨は降るわ、靴は滑るわ、歌詞は忘れるわ、機材は調子悪いわ、こんなコンサートで終わるなんて、絶対嫌やけん』
『え? そ、そうよね』
詩織は心の中でガッツポーズをした。まさに思いどおりの展開になってしまったではないか。神様ありがとう。神様愛してる。天にいくらお礼をしても足りないぐらい嬉しかった。
詩織の話を聞いていた真一は拍子抜けしたような表情で、その場にいる面々の顔を順に眺めていった。いまだにひざをついているのは、おそらく惰性なのだろう。やがて綾香の顔の前で、彼の目の動きは停止した。
「そ、そうだったのか……」
素直に喜ぶことができないのか、複雑そうな声の響きだ。「確かにひどいライブだったみてえだな」
「私のせいじゃないもん」
プイと綾香は顔を背けた。「スタッフのせいやん。何もかも不備ばっか。今だって、本当ならすぐアンコールの予定やったとに、またまた機材トラブルでお客さん待たせとうっちゃけんね」
「馬鹿いうな」
フンと鼻で笑ったのは、壁際に立つ南だった。「スタッフの不備がなくとも、歌詞を忘れたり、泣いて歌えなくなったり、曲順を間違えたりしたのはお前のせいだろうが。どっちにしてもコンサートはグダグダに終わってたな」
綾香は唇を尖らせ、やがてポツリと「真一のせいやもん」と呟いた。
「あん?」
聞き逃さなかったらしい。真一が綾香を睨みつけ、綾香も睨み返した。
「あんたのこと考えんようにしよう考えんようにしよう、って思ってたら、余計に顔が浮かんできてさ。全然コンサートに集中できんかった」
悔しそうに顔を歪める。「もう――せっかくお客さん、高いチケット買って観に来てくれとうとに……」
「綾香……」
二人はまだひざまづいたままだった。二人の姿を見つめながら、そのままキスでもしてしまいそうな雰囲気だなとぼんやり考えていたら、いつの間にか近くに来ていた田之上がそっと耳打ちをした。
「なんか、キスでもしちゃいそうな雰囲気だね」
「もう」
詩織は苦笑した。
「なんで写真のこと言わなかったんだよ」
真一の問いかけに「写真?」と首を傾げる綾香。「あのキス写真のことだ。あれ、松尾和葉ちゃんにあげたらしいじゃねえか」
「なっ……!」
綾香はようやく立ち上がった。驚いた顔で真一を見下ろしながら言った。「なんで知っとうと? そんなん誰にも言ってないはずやとに」
台詞の途中で真一もひざを伸ばしたので、最終的には見上げる形となった。
詩織と田之上も驚いて顔を見合わせていた。それはつまり、あの人気アイドルの松尾和葉が写真を流出させたということなのか。いったいなぜ。トップアイドルの地位を守るためか。
ただ、綾香がそのことを真一に内緒にしていた理由はなんとなく分かるような気がした。真一が和葉の大ファンだという話は何度か聞いたことがある。おそらく、恋人のスキャンダルを促した張本人が、自分の好きなアイドルだということを真一に知られたくないという、綾香の優しさだったのではないか。
「だって」
綾香が口を開いた。「あんな写真を勝手に他人にあげたら、怒られるかと思ったっちゃもん」
テヘッと笑う彼女を見て、詩織と田之上はずっこけた。
唐突に真一が一歩前へ踏み出した。詩織は思わず南に顔を向けたが、彼は相変わらず壁に寄りかかって腕を組み、その光景がまるで目に入らないといった様子でじっと動じずにいた。
綾香の肩に手をかけ、彼女が目をつむったのを合図に真一はそっと唇を重ねた。三秒に満たない短いキスだった。それでも、二人の失われた時間を取り戻すのに充分な働きだったようだ。キスが終わって手を離すと、綾香は頬を紅潮させてうつむいた。楽屋内に、果てしなくも一瞬の沈黙が訪れた。
「で?」
その沈黙をやぶったのは南だ。「重大発表はどうするんだ?」
詩織も思い出した。
そうだ。引退に代わる重大発表について、皆で頭を悩ませていたのだった。
次回、最終回。