69 雨
「チロリさんの本名、綾香さんって言うんですね」
チロリの元恋人の姿が見えなくなってから数分後、美穂がポツリと呟いた。「うん」と橘川は頷く。「あの人、綾香さんの引退を止めてくれるでしょうか」
『あの人』という表現を聞き、そういえば男の名前を聞き忘れてしまったということに気がついた。しかし、もはやどうでもいいことなのかもしれない。
橘川は、二人の警備員によって封鎖されている、ホールへ続く細い通路を無言で見つめた。彼の頭の中では、先日美穂が突然電話してきた日のことが蘇っていた。
私も一緒に連れて行ってくださいという美穂の懇願には驚かされた、というより戸惑わされた。彼自身、彼女にどんな顔をして会えばいいのか分からなかったし、会場へは早苗と同行する予定だった。彼女と早苗を引き合わせるのも、会ったところで何が起きるというわけでもないだろうが、正直気が引けた。
そんな彼の逡巡を見透かしたように(実際、見透かしたのだろう)早苗は言った。
『美穂ちゃんも、ケジメをつけたいんだよ。チロリちゃんに対しても、あなたに対しても』
しかたがないなあ、といった口調だった。『私はいいから、二人で行ってきなよ』
『え?』と早苗の顔を凝視する。彼女は頷いてから、もう一言だけ付け加えた。
ただ、心のどこかでは橘川もそうしなければいけないような気が、ぼんやりとだがしていた。ケジメ――その言葉は彼自身にも重くのしかかっていたのだ。
「私はこのまま帰ります」
美穂が唐突にそう言って、橘川は現実に引き戻された。美穂は彼と同じように、男の消えていった通路に目を向けている。あるいはその先にチロリの姿を見ているのかもしれない。「チロリさんのことは心配だけど、コンサートを観る気にはなれないし、橘川さんとあまり長く時間を共有するのは、彼女さんに悪いと思う」
「そう」
それだけ答えながら橘川は考えていた。今の言葉には橘川に対する好意が薄らと示されている。彼女には、早苗は風邪を引いて来れなくなったと説明してあったのだ。「俺ももう帰ろうかな」
美穂は目を丸めた。
「な、なんで?」
そう尋ねつつも、いくつか考えはあるらしい。「もう、コンサートが終わりに近づいてるからですか? 早苗さんに悪いからですか?」
橘川は静かにかぶりを振った。
「美穂ちゃんに悪いから」
その瞬間、美穂は「え?」と言葉を失くした。「美穂ちゃんを先に帰らせて、俺一人だけコンサートを楽しむなんてできないよ」
そして彼女はうつむいてしまう。何かを考え込む様子のその横顔に、橘川は更に一言、先日の早苗と同じ台詞を付け加えた。「また、次のコンサートを観に行けばいいから」
「やっぱり」
顔を上げながら、美穂は生気の抜けたように呟いた。「知ってたんですね」
それ以上彼女は語らず、一瞬だけ困惑した橘川だったが、すぐに気がつく。知ってたとはつまり、美穂の橘川に対しての気持ちのことなのだ。彼女がどういった経緯でその結論に至ったのかは不明だが、いずれは明かすことになるだろうとも思っていた。
「うん。貴美ちゃんに聞いた」
その言葉に対しての反応はなく、彼らの間に数秒の沈黙が訪れた。しばらくしてから、美穂は「出ましょう」と出口に向かって歩き始めた。「ああ」と橘川も後に続く。ロビーにいたチロリファン数人が、二人をチラッと一瞥するのが見えた。
外は相変わらず雨が降っていた。だんだんと小雨になってきてはいるが、空の暗さは変わらない。二人はそれぞれ傘を広げ、正門へ直進した。
「私、いったい何やってるんでしょうね」
その声は呟き程度のもので、おまけにバックグラウンドではずっと雨音が響いていたが、橘川の耳は不思議とはっきり聞き取ることができた。橘川に顔を向ける美穂。「勝手に橘川さんに片想いして、勝手にチロリさんを恨んで、勝手にチロリさんを引退まで追い込んで、最後は引退を止めようとしてる。まるで自分のことしか考えてない人間みたいで嫌になっちゃいます」
美穂は笑っていた。その大きな瞳の奥にどんよりとした闇を浮かび上がらせながら。
「何もかも、全部忘れよう」
橘川は敢えて言った。「今日の雨みたいに全部洗い流せばいいんだ」
美穂がどのような返事をするのか若干恐れたが、彼女は笑顔のまま「はい」と頷いた。
「もちろん、チロリさんにはいつか謝りますけど、橘川さんのことは綺麗サッパリ忘れます」
彼女は前を向き直して言った。「橘川さん、私、本当に橘川さんのことが好きでした」
数秒の間を置き、続ける。「――最後に手を繋いでいただけませんか?」
前を歩く彼女の背中を眺めながら、「分かった」と、橘川は彼女の歩調に合わせながら、優しく手を取った。それに答えるかのように、正門を出る頃には、美穂が自然と橘川の肩に頭に寄りかからせていた。やがて傘は一つになり、二人の姿を、雨が綺麗に洗い流した。
渋谷駅から地下鉄に乗った時、橘川の隣にはもう美穂の姿はなかった。しばらく渋谷でブラブラしてから帰るのだと彼女は言った。
闇が光をさえぎり、ドアのすぐ脇に立つ橘川の顔を、窓が鮮明に映し出していた。その背後にはたくさんの自分の知らない顔が並んでいる。
左手に残る美穂の温かい手の平の感触。
美穂ちゃん――。
まだ高校生の少女の温もりを、いずれ彼女が出会うべき誰かに託そう。きっとその人物は自分よりもはるかに上手く、彼女を導いてくれるはずだ。
綾川チロリはどうなっただろうか、とふと頭をかすめた。あの男は彼女をちゃんと導くことができたのか。芸能界を引退するという誤った道から彼女を。
橘川はフッと自嘲的な笑みを浮かべた。美穂は自分のことを、自分のことしか考えてない人間と言っていたが、自分だって同じだなと思う。ひょっとしたら、チロリにとっては引退するべきなのかもしれないし、もしくは橘川にとってもそうなのかもしれない。結局は、橘川自身が誰よりも、必死にチロリの引退を嫌っているというだけにすぎない。
そう考えれば不思議と気分が楽になってくる。もし、チロリが本当に引退してしまっても、楽しい思い出のまま胸の中に残せそうな気がする。
ただ――。
明日もチロリがアイドルを続けているのなら、快く彼女を迎えてやりたい、とそう思った。
車内アナウンスが最寄の駅名を告げた。電車を降りて地上に出たら、路線を変えて秀英大学のほうまで行ってみよう。なんだか、わけもなく早苗に会いたかった。
今夜もバイトで顔を合わせる。しかし、今すぐ会いたかった。