68 なんとしてでも
真一は思わず辺りを見回した。受付から少し離れたところに物販コーナーがあり、チケットを持たぬほとんどの者は、そこに群がっている。中にはじろじろとこちらに注意を向けている者もいるが、まさかこんなところにチロリのスキャンダルの相手の男がいるとは思っていないだろうし、男の正面に立っているのが、人気アイドルの松尾和葉だとも思っていないはずだ。
「え? か、和葉ちゃん?」
目を剥いて指を差す真一のその問いかけには答えず、和葉はメリハリのある動作で「お願いします」と頭を下げた。
「チロリさんを止められるのはあなただけだと思います」
顔を上げる間も、真剣な眼差しを真一に投げかけ続けている。「私はその、見てのとおり……」
わずかに声を抑え、「松尾和葉なんですけど」と言った。「もしあなたが協力してくれるのなら、私、なんだってやります。あなた、私のファンなんですよね」
真一は相変わらずキョトンとしたままだった。あまりに予想外の事態だったため、思考回路がパンクしてしまったのだ。只今の和葉の台詞もまともに聞こえてはいなかった。自分を知っているということ。自分が和葉のファンだと知っているということ。例の青年と一緒にいるということ。そして、真一の知る天然ドジキャラの和葉と、目の前にいる真面目そうな和葉とのギャップ。様々な疑問が頭の中を駆け巡っていた。
「とにかく、説明しますね」
二人の顔を見比べる青年。その口調には場の雰囲気を落ち着かせようという狙いが見えた。「まず、俺と和葉ちゃんはちょっとした知り合いで」
その時、和葉がチラッと意味ありげな視線を青年に注いだが、真一は特に気にとめなかった。「で、和葉ちゃんとチロリちゃんも友人同士なんですね」
ハッと真一は口を小さく開けた。そうか、そういえばそうだった。綾香は和葉と仲が良い(裸エプロン写真を入手できるほどの)のだから、和葉が自分のことを知っていても何ら不思議ではない。青年の目論見どおり、ほんの少し落ち着きを取り戻す。
「そ、それで、和葉ちゃんに綾香が引退したいって相談したのか」
その言葉に二人は不思議そうに顔を見合わせた。「ん?」と真一は眉をひそめるが、すぐに和葉が「いいえ」と首を振った。
「チロリさんが私にそんな相談を持ちかけることはありえません」
なんとなく悲しげな響きに聞こえた。「なぜなら、あのキス写真を流出させたのは私なのですから」
数秒後、再び真一はパンクした。
和葉は順を追って説明してくれた。キス写真を担保に、裸エプロン写真を綾香に贈ったこと。そして、綾香と真一の仲をぶち壊してしまおうとキス写真をネット上に流出させたこと。
なぜ、和葉がそんなことをしたのかという説明はなかったが、真一は詮索することはしなかった。それどころではなかったからだ。
「重大発表っていつ頃やるんだ?」
青年に詰め寄る。彼はうろたえたように目を泳がせながら答えた。
「う、噂ではコンサートの一番最後だそうですけど……はっきり言って分かりません」
真一はチッと舌打ちをすると、二人を背にして警備員のもとへ歩き、チケットを提示した。「どうぞ」と手の平で先をうながす警備員の横をすり抜け、細い通路を走った。それはわずか二十メートルほどの距離であったろうが、やたらと長く感じられた。
『全部、あんたのせいっちゃけんね』
彼が出て行った日、最後に聞いた綾香の言葉を思い出す。つまりあれは『あんたが裸エプロン写真なんて欲しがったせいっちゃけんね』という意味だったのだ。なぜ綾香が和葉にキス写真を送ったことを内緒にしていたのかは分からないが、そのおかげでとんでもない思い違いをしてしまった。
クソったれ……!
つけヒゲをもビリビリとはずし、ポケットに入れてから観音開きのホールの重い扉を開いた。すぐそばにあった二階席へ続く階段を無視し、勇み足で人の溢れるアリーナへ飛び込む。しかし、しばらくして真一は「ん?」と立ち止まった。
ホール内は真っ暗だった。歓声は聞こえるが、チロリの歌声は聞こえてこない。真一はピョンピョンと軽く飛び跳ねてステージの様子を窺った。ドラムセットや機材などが見えるも、人の姿はない。本編は終了してしまいアンコール待ちだろうか。いや、それなら客の呼びかけがあるはずだがそういったものもない。
「なあ、今どうゆう状況なんだ?」
夏休みのはずだがセーラー服姿の女子高生二人組に、話しかけてみた。彼女たちは一瞬だけ不審そうな目の動きを見せたが、手前にいた背の高い少女が代表してなんとか答えてくれた。
「中断してます」
上方を指差す。「さっきアナウンスで言ってたじゃないですか。機材のトラブルだって」
「そ、そうか」
真一は愛想笑いを浮かべた。「今来たところでさ。サンキュ」
彼女たちのもとを離れ、人の間を抜けてステージの近くへ向かう。その際にも様々なチロリンファンの声を聞くことができた。
「今日のコンサートは散々だな。ファンを待たせるわ、まともに歌えないわ」
「チロリン、かわいそー」
「イベントスタッフが悪いんじゃない? チロリちゃん、三回も滑って転んじゃったし。ワックスかけすぎなのよ」
「早くしろー!」
どうもコンサートは上手くいっていないらしい。
とりあえずはステージまで目と鼻の先といった位置にまで来た。それとほぼ同時に照明がつき、歓声が大きくなった。一人一人とバンドメンバーたちがステージに姿を現してゆく。
《みんなー、お待たせー》
最後にチロリがマイク片手に手を振りながら出てきた。白いハットにノースリーブのシャツにホットパンツ。ひょっとして次の曲はアレかなと真一は予想する。《いやー、参っちゃったねー今日はもう》
アハハと苦笑する。《でもこの曲ぐらいはキチンとやるけん、皆、盛り上がってね。『イッツ・パフォーマンス』!》
彼女が曲名を告げると、再びの大歓声と共に、周りの客が両手を挙げて何やら叫びながらジャンプし始めた。真一もやや目を白黒させながら一緒に跳ねる。
そして演奏が始まった。リズムに合わせてカラフルな照明たちがステージを派手に、刺激的に彩っていく。そしてチロリも――。
真一は眉をひそめた。テレビなどで『イッツ・パフォーマンス』を披露する際は、ところ狭しと派手なパフォーマンスを繰り広げてきたはずだが、今日は中心に立って身体を揺らしているだけだ。三回も転んだそうなので、それを恐れているのだろうか。しかし――。
お前、こんなコンサートを最後に引退するつもりなのか?
巨大ビジョンに映るかつての恋人に問いかける。問いかけながら考えを巡らせる。重大発表は本編の終わりか、もしくはアンコールあたりで行うのだろう。
なんとしてでも、と真一は思った。
なんとしてでも、止めなくては。