67 垢抜けた青年
敢えて開演時間より三十分ほど遅れて『渋谷ヴェルパレス』の正門をくぐった。その先は駐車場となっており、そこから、傘を傾けて、建物の全容を眺めてみた。真正面からだと建物は正方形に見える。あの中に二千五百人を収容するホールが入っていることを考えると、ひょっとしたら立方体にデザインされているのかもしれない。
真一は意識を足元に移して歩き始めた。綾川チロリの記念すべき日は、あいにくの雨に降られてしまった。ちょっと前よりかは落ち着いたものの、それでも地面は絶えず雨水をまき散らしている。すでにスニーカーとジーンズの裾が少し濡れてしまっていて、こんなみすぼらしい姿の男を、あの立派で真新しい建物が迎え入れてくれるのか不安になる。
今、何曲目ぐらいだろうな。
心の中でそう呟きながら、遅れてきたことを少し悔いてもいた。来場を遅らせたのは、チロリが入り口の前に立ってファンの一人一人に挨拶するという情景を思い描いたからである。人気アイドルがそんなことをする必要もなさそうだが、チロリのことだから分からない。念には念をというわけだ。もし、面と向かって目撃されたら、さすがにバレてしまうだろう。
アゴを手で触り、ヒゲの感触を確認する。デビューイベントの日と同じように、真一は野球帽とサングラスとつけヒゲで別人になりすましていた。
『ソールドアウト』と書かれた券売所を横目に傘を畳み、開け放たれた入り口を抜けた。一階の正面は一面が透明なガラス張りとなっており、外からでも確認できたことだが、広々としたロビーには意外にも数十人の人の姿があった。ロビーが喫煙所となっており、ライブよりニコチンを欲したファンたちがホールを抜け出してきたのかと思いきや、そうでもないらしい。煙草をふかしている者などおらず、こちらも禁煙区域のような雰囲気だ。
と、まあ彼らのことなど特に興味はないのでホールの入り口を探す。すぐに二人の警備員にさえぎられた通路を見つける。そこでようやく真一は、チケットを提示することなくここまで来れたことに気がついた。なるほど、ロビーに溜まっている者たちはチケットを持たず、それでもコンサートをあきらめきれないチロリンファンなのだ。よく観察してみると、皆、羨ましげな表情を浮かべている。
フン、お前らには悪いが、そろそろ中に入らせてもらうぜ。
うしろめいような、それでも誇らしげな気持ちになりながら、真一は警備員の立つ場所へ向かった。ジーンズのポケットから財布を取り出し、その中からチケットを取り出しながら。――その時だった。
「遅かったですね」
背後から誰かに話しかけられたのだ。
話しかけてきたのは若い男だった。「あん?」と眉間にしわを寄せながら、まるでガンをつけるように相手のつま先から頭まで視線を這わせる。ジーンズは真一と同じように裾を湿らせている。小奇麗なジャケットを羽織り、首もとにネックレスを光らせている。そして、その上の帽子と痩せた顔立ちの組み合わせを見た時、心の中に引っかかるものを感じた。
こ、こいつ誰だっけ。
真一は男のことを知っていた。しかし、誰であったかがなかなか思い出せない。必死に記憶の糸を手繰り寄せようとしていた時、男が「秋葉原ではどうもです」と笑みを浮かべた。
秋葉原……?
「あ、ああ」
ついに混沌の中から一つの記憶を抜き出すことができた。そうだ。チロリのデビューイベントの時に出会った青年だ。名前はなんといったか忘れてしまったが、一緒にメイド喫茶にも入り、チロリについて様々な話をした。あの時、彼はチロリに随分と感化されたようだったが、やはり今日のコンサートにも来ていたか。「あんたか。久しぶりだな」
真一はサングラスをはずした。青年はヒゲも偽者だということを知っているはずだ。「こんなところで何やってんだ? もうライブ始まってんだろ」
そう尋ねながら、青年の背後に女性がうつむいて立っているということに気がついた。前に会った時は女の影などまるで感じなかった気がするが、あれからもう一年も経っている。女の一人や二人ぐらいできるだろう。
「ええ、コンサート楽しみにしてたんですけど」
青年は苦笑してみせた。「あなたがあまりにも遅かったので、まともに観れそうもありません」
「え?」
真一は目を丸めた。「俺が遅かったから? な、なんで?」
理由というより――言葉の意味を問いただそうとするも、彼が返事をする前に合点がいった。
間違いない。あのキス写真だ。真一の素顔を知っている彼は、あのキス写真を見た時に、『あいつだ』とピンときたに違いない。すると、今日自分を待ち伏せていた目的はなんだ? チロリのファンとして、一言言いに来たのだろうか。『よくもチロリンに傷をつけてくれたな』。
「バレちまったか」
フッと真一は不敵な笑みを浮かべた。「そうだ。俺はずっとあいつと付き合ってたんだよ。デビューイベントのあの日もすでにな。いったい何の用だ? 俺を殴りにでもきたのか?」
冗談めかした口調であったが、殴られてもかまわないという思いもあった。彼がいまだに、チロリのファンを続けてくれたことに対する感謝が、罪悪感に変わっていた。しかし、彼は「俺は今でもあなたに感謝しています」と述べた。
目を丸める真一に、彼は更に続けた。。
「時間がないので率直に言いますが」
真剣な眼差しで、真一を見つめる。「チロリちゃんを止めてください。チロリちゃんは引退を考えています」
警備員の立つ通路の先にあるはずのホールからは、チロリの歌声はおろか、歓声さえも聞こえてこなかった。コンサート会場の一部とは思えないほどロビーは物静かで、言葉を失くした真一たち三人の周囲は、それがより顕著だった。
「な――」
ようやく真一が口を開き、青年はわずかに反応を見せた。「何言ってんだよ。俺と別れたのはアイドルを続けるためなんだぞ。なんで、あいつが引退しなきゃなんねえんだよ」
真一は笑っていた。しかし、青年は笑わないし、彼の恋人もじっとうつむいままだ。
「詳しい理由は分かりません」
青年は力なく首を振った。「ただ、俺の想像では、やはりあなたが忘れられなかったんじゃないでしょうか。ファンに別れたと言っておきながら、裏ではヨリを戻す。そんなファンを裏切るようなことはできないと――」
「いやいやいや」
真一はぶるぶると首を振った。顔はまだ笑っている。「確かにその可能性はあるかもしれねえけどよ。あいつがどんなことを考えてるかなんて分かりっこねえだじゃんか。コンサートで重大発表があるってだけで決めつけんなよ。俺の予想ではまず、あいつは引退なんて考えてねえと思うぜ」
「私が聞いたんです」
そこで初めて青年の恋人が口を開いた。「え?」と訝しげな表情で、真一は彼女に意識を初めて向けてみた。次の瞬間、彼の目は信じられない物の姿をとらえた。
そ、そんな馬鹿な……!
地味な色のワンピースを着ていた。眼鏡をかけていた。髪の毛を下ろしていた。それだけのことで全く気がつかなかった。しかし、真一を真っ直ぐに見すえた少女の顔は紛れもなく、真一が恋焦がれ続けた憧れの存在、憧れのアイドル――松尾和葉のものだった。