66 波乱な幕開け
開演時間の六時丁度に、照明が音も立てずにスッと消えた。絶え間なく続いていた観客のざわめきもピタリと止まり、皆の目がステージに釘づけとなる。ステージの背景に巨大なビジョンがあり、そこに横文字で『綾川チロリ プレミアムコンサート』と表示されると同時に、ホール内は大きな歓声に包まれた。
ステージにスモークが焚かれ、この世の終わりのような幻想的かつ厳粛なBGMが流れ始める。それが綾香のキャラクターにフィットしているかは別として、これから幕を開けるコンサートに対する期待が否応なく湧き上がってくる。
冷たげなブルーにライトアップされたスモークの中に人影が現れる。それに誰かが気がつき、瞬く間に客席の一番端にまで伝わっていく。歓声が波のように押し寄せていき、引くことのないまま、スモークを八方に蹴散らした。
《みなさーん!》
満を持して姿を現した綾香が、マイクを片手に叫んだ。《チロリンコンサートの幕開けばーい!》
ドーンと近くで衝撃音が鳴り、思わず耳をふさいだ。ステージが瞬時のうちに明るくなり、バックバンドを従えた綾香が《イエーイ》と飛び跳ねて観客たちを鼓舞する。
矢上詩織のもとにも細長い紙吹雪がヒラヒラと落ちてきた。先ほどの衝撃音がキャンン砲によるものだと合点がいく。同時に、キャノン砲に驚いて気がつかなかったが、すでに一曲目が始まっているらしい。ブラス音とデジタル音がミックスされたハイテンポなイントロ。『やっぱり博多が好きやけん』だ。
田之上裕作と顔を見合わせる。何の必要があるのか、それは『始まったね』という確認だった。
《やっぱり博多が――》
綾香がそう促すと。
「好っきやけーん!」と観客たちが声を張り上げる。詩織と田之上も、控え目ながら一応参加しておいた。
二人は客席のほぼ中心辺りに陣取っていた。肉眼で綾香の表情を窺うのは難しいが、巨大ビジョンが常に彼女のアップをとらえてくれている。彼女の顔を見て、詩織はギョッとしてしまった。
め、めちゃくちゃ緊張してるじゃんか。
それでもまだ一曲目。硬い表情も、いずれは緩んでいくだろうと勝手に予想した。
開演前に楽屋に遊びに来てよ、と綾香に言われながら行かなかったのは、彼女にどんな言葉をかければいいのか分からなかったからだ。なぜなら、詩織はまだ納得がいかなかった。彼女に引退を考え直してもらいたかった。でも、開演前にチョロッとそんなことを言ったところで、意志が変わるのであれば苦労はしない。
だからといって、あきらめたわけでもなかった。重大発表はコンサートの一番最後、アンコールにて行われると聞いている。それまでに――それまでに綾香の気がなんとか変わってくれやしないかと密かに期待しているのだ。
「おっと」
後ろの客に押され、バランスを崩す。アリーナはオールスタンディングで、席はいわば早い者勝ちなのだ。熱狂した客はどんどん前へ前へと詰め寄せてしまう。田之上の手をギュッと握り、自身はなんとか人波に流されずに済んだ。
「俺も押されちゃったよ」
耳もとで田之上は言った。そうしないと言葉など、演奏にかき消されてしまうからだ。「うわー、背中が濡れてる。傘差してこなかったのかな」
詩織は苦笑した。開場の一時間ほど前から雨が降り出し、詩織も田之上も傘を差しての来場となった。かなりの土砂降りだったので、詩織が着ている赤いブラウスも少し湿っている。
《ギャー!》
ステージから(正しくはスピーカーから)何やら尋常ではない叫び声が聞こえた。同時に不安げなざわめきがホールを支配する。何ごとかとそちらに目を向けてみると、尻餅をついた綾香がスタッフに抱え起こされているところだった。どうやら転んでしまったらしい。綾香は苦笑しつつも、何ごともなかったかのように歌い始めようとしたが、途中で歌を止めてしまったため、歌詞が飛んでしまったらしい。しきりに《あれ?》《あれ?》と呟き、しまいにはメロディに合わせて《あーれー♪》と歌っていた。
「綾香ちゃん、絶不調だね」
笑いながら話す田之上を睨みつける。彼はえ? というふうに首を傾げた。
詩織は本日のコンサートの成功こそが、鍵を握っていると思っていた。コンサートが成功すれば、綾香もいい気になって、彼女の中に『やっぱりアイドル続けたいな』などという発想が芽生えてくれると考えたのだ。しかし、このままでは非常にまずい。
両手を握り合わせ、必死に念じる。綾香、頑張れ。
二曲目となった『やっぱり博多が好きやけん』のカップリング曲が終わり、三曲目のイントロが流れ始める。聞き覚えのない曲で、おそらく新曲だろうと予想した。
ノリノリなナンバーが三曲続いた後、綾香は一旦ステージ脇に消えた。いつまでも『やっぱり――』の山笠衣装を着ておくわけにもいかないだろうから、いわゆるお色直しであろう。
再登場した綾香は、白銀のドレス姿だった。
『クレセントムーン』を思わせるR&Bふうのバラードで、またもや新曲だ。Aメロからサビまで、一貫してしっとりとした雰囲気が漂っており、綾香も先ほどまでとは全く違う顔つきをしていた。
綾香はやっぱりノリの良いポップスが似合うなと思いながらも、詩織は無意識のうちに曲を口ずさんでしまっていた。『あなたの未来を一緒に生きよう』。綾香が書いたと思われるその歌詞も心にじんと響いた。
「ん?」と詩織は目を見張った。巨大ビジョンに映る綾香の瞳がやたらと潤んでいる。やがて、目の中に収めきれなかった涙が一筋、つつっと頬を伝った。歌も上手く歌えなくなり、またファンがざわつき始める。
元気な姿を見せるんじゃなかったの?
思わず詩織も涙腺が緩んでしまった。きっと綾香は、これがアイドル活動だと締めくくりだと意識してしまったのだ。やはり彼女も本当は引退なんてしたくはない――。
いや、まてよと思い直す。『あなたの未来を一緒に生きよう』。これは井本真一のことを歌っているのではないのか。彼が去っていってしまったことを嘆いて――。いや、しかし、引退した後に彼を説得しに行くと言っていたわけだから、悲しむのはまだ早いし――。ということは、引退は考え直して――。
うーんと詩織は腕を組み、首を捻った。納得のいく答えはまだ出なかった。
「うーん、なんか今日はまともに歌えてないなあ」
田之上の毒舌に、またも顔をムッとさせる詩織。田之上は慌てた様子でかぶりを振った。「いや、でも、このままいけば綾香ちゃん、引退を考え直してくれるかもって思わない?」
「え?」
詩織は眉をひそめた。「なんで? こんなライブじゃ、アイドル活動に嫌気がさしちゃうんじゃないの?」
「いや、逆にさ」
田之上はしたり顔で言った。「こんなぐだぐだなコンサートで終われないじゃん。いつかまたリベンジしてやるって気になると思うよ」
あっ、と詩織は口を開いた。言われてみればそうだ。大成功でも良し、大失敗でもまた良し。綾香はお調子者でもあり、負けず嫌いでもあった。どちらかに転ぶというのなら、もはや後者しか望みはないのではないか。
両手を握り合わせ、必死に念じる。綾香、また転べ。