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65 いざステージへ

 楽屋前の廊下には多くの祝花が並んだ。多くは芸能関係者からの寄贈品で、綾香の憧れの人で、デビュー曲をプロデュースしてもらったR&B歌手のリリアン、数々のバラエティ番組で共演し、妹のように可愛がってもらった岩田幸一、出世の立役者トーマス岸辺、かつてのライバル、プリンセス雅からのものもあった。いずれも、予定と重なり、観覧にこられなかった面々だ。

「さっきチラッと聞いたんだけど」

 何を勘違いしたのか、露出狂のような青いドレスを着飾った滝田亜佐美が腰に手を当て、言った。「あんた、どうゆうつもり? 今日で引退するつもりなの?」

 紙パックのオレンジジュースをストローでチューと飲みながら、池田綾香は頷いた。

「私がおらんくなったら、あんたがSDPの看板になるっちゃね」

 テーブルにコトンとパックを置く。「あーあ、先が思いやられるなあ」

「やっぱり――スキャンダルが原因?」

 内藤ちえ美が心配そうに綾香の顔を覗き込む。彼女もフリルのついたワンピースで主役級のオシャレをしているが、二人がコンサートに飛び入り出演するという話は今のところない。

「ううん」

 綾香はかぶりを振った。一曲目の『やっぱり博多が好きやけん』に備え、山笠ふうの衣装を身にまとっている。「前々から私、アイドルは向いとらんって思いよったけんね。スキャンダルは口実みたいなもんよ」

 亜佐美とちえ美は顔を見合わせた。まぶたをパチパチと動かしている。

「アイドル、向いてないんだってさ」

「チロリちゃんが向いてなかったら、いったい誰が向いてるんだろうね」

「重大発表ってコンサートの一番最後だよね」

 綾香に向きを直し、亜佐美は腕を組んだ。「あんた、それまでもう一度考え直してみなさい。ワンマンライブでこれだけのお客さんを集められる子なんてそうそういないんだから。絶対に絶対に、後悔するよ」

 綾香は頷いたが、やはり心はもう決まっていた。



 コンサート開演まで残りわずか三十分となり、亜佐美とちえ美は最後まで何か言いたげな顔をしつつも客席へと向かった。楽屋には綾香と、彼女のマネージャー南吾郎だけになった。

「来月からの仕事、ちゃんとキャンセルしてくれたとよね」

 綾香はやたらと豪勢な楽屋のソファに座っていた。先ほどから落ち着きなく衣装の乱れを直している。壁に寄りかかって立つ南が「ああ」と返事をした。

「テレビやラジオはまだいいが、レコード会社のほうはカンカンだぞ。アルバムはすでにレコーディングを済ませた曲だけでなんとか発売できるが、その後も契約は残ってるんだ。アルバムを全曲まるごとリミックスしてセカンドアルバムとして出すか?」

 それでも、引退というビッグニュースに押され、アルバムはそれなりにヒットするだろうなという目算もあった。レコード会社側にしてみると、売り上げを見込めるまま契約が満了するようなら、さほど悪い話ではないだろう。

「詩織、来てくれんかったな」

 綾香は遠い目をして独り言のように呟いた。矢上詩織に、名乗ってくれれば開演前に楽屋へ入れると告げてあったのだが、来てくれたのは先ほどの亜佐美、ちえ美という同事務所の戦友たちと、同じく社長のみだった。社長との会話は普通すぎてあまり覚えていない。

「ぼちぼち開演だ。今更来ても、もう入れんぞ」

 素っ気なく南が言う。しきりに足を揺すっているのは、煙草の禁断症状かもしれない。ホールは全館禁煙で、喫煙したければ裏口から外へ出てコッソリと吸うしかない。おそらく開演までに最低一度は外へ出るだろう(もしくは開演中もかもしれないが)。

「私が引退したら、南さんの仕事もなくなると?」

 何気なく綾香がそう訊くと、南はふんと嘲笑するように頬を緩めた。

「何度も言うが、SDPは事務所の成長に人手が追いついてない。仕事なんていくらでもあんだよ」

 スタスタと革靴の底を響かせて、綾香のもとへ歩み寄る。「まあ、ここ一年俺も休みなしで働いてきたからな。できれば一ヶ月ぐらいのんびり休んで、それから新しいアイドルの卵でもスカウトして育てるかな」

「詩織はダメばい?」

 意地悪な笑みを浮かべ、綾香は念を押した。「詩織にだって彼氏はおるけんね」

「ああ」

 南は頷いた。「コブつきはもうコリゴリだ」



 綾香の記念すべき最初で最後のコンサートの舞台となった『渋谷ヴェルパレス』は収容人数二千五百人の中規模なホールである。開業から十年と経たない新鋭のコンサート会場で、リハーサルでステージに立った時、まだ何色にも染められていない風を肌で感じた。

 その風はステージだけでなく、客席にも、楽屋にも、廊下にも、ロビーにも、いたるところを流れていた。まるで、彗星のように芸能界へ現れ、かぐや姫のようにあっという間に月へ帰ってしまう綾香のように透明な風が。

 ホールから大勢の人の気配がする。綾香の登場をいまかいまかと心待ちにしているファンたちの高揚がこちらにまで伝わってくるようだった。亜佐美やちえ美、それに詩織や田之上裕作はどの辺りにいるのだろう。松尾和葉は来てくれただろうか。菊田つばきは。カビリオンズは。握手会にも来てくれた橘川夢多は。そして、井本真一は――。

 何度か首を横に振り、頭の中に現れようとした真一の顔を、遠い彼方へ押しやった。

 綾香はステージ裏でスタンバイしていた。あと数分すれば、ホールが暗転し、SEが始まる。SEが終われば、いよいよファンの前に姿を現さなければならない。

 初のコンサートに対する緊張感よりも、後の重大発表の時のファンのリアクションに対する緊張感のほうがすでに上回っている。

 しかし、それはいけないことだと思った。

 ファンたちが愛してくれている綾川チロリを、彼らの目に焼きつけるのだ。引退のことなど今は置き去りにして、すべての一瞬一瞬で精いっぱいの綾川チロリを見せる。

 パフォーマンス。パフォーマンス。

 呼吸を整えるように、胸の中で何度も繰り返す。それから、ステージでの立ち回りのイメージングや、間違えやすい歌詞の反芻、あらかじめ考えておいたMCでの話題の確認などを行う。そのうちに、だんだんとステージそのものに対してに緊張の比重が傾いてゆく。

 だからといって、真一の顔は――消えない。

 ただ、それはそれでかまうまいと綾香は思い直した。もし、観に来ているのであれば、彼にも最高のステージを提供してみせよう。最初で最後の晴れ舞台を見せてやろう。

 よし!

 綾香はもう一度深く深呼吸をした。

 ――確かに、これが最後だと思うと寂しい気持ちもある。でも、きっとファンの声援がそれを打ち消してくれるという確信があった。彼らの変わらぬ愛情に包まれたまま芸能界を去っていくのだ。寂しくなんてないに決まっている。

 それを証明するために、いざ綾香はステージへ上がる。


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