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64 答え

 橘川夢多は太田早苗宅にいた。夜勤明けで泊まり込み、ついさっき目覚めたところだ。本日も仕事があるため、それまでの時間をどう使うか、デートにでも行こうか、このままのんびりとテレビでも観て過ごすか。シングルベッドに並んで横たわりながら、そんなどうでもいいことを話し合っていた夕刻、その電話は突如かかってきた。

「美帆ちゃん? どうしたの?」

 羽山美穂の様子はおかしかった。自分から電話をかけてきたくせに、こちらがどんな言葉をかけても、返事をしてくれない。電話機の向こうから彼女の息づかいは確かに聞こえてくるというのに。

 いや、そもそも彼女が橘川に電話をかけてくるという時点で、その様子が平常ではないことを伝えていた。あの日――彼女と約一年ぶりに再会して、自分でも気がつかないうちに彼女を傷つけてしまったあの日以来、こちらからも、もちろん彼女からも連絡を寄越したことなどなかったのだから。

「どうしたのかな」

 橘川の顔を覗き込みながら早苗が言った。髪の毛はボサボサで、いまだに寝ぼけまなこだ。彼女は裸だったが、特に情事を行ったわけではなく、彼女が床につく際のいつものスタイルだった。一方、ティーシャツとトランクスという姿の橘川は、彼女と目を合わせ「さあ」と口だけを動かした。二人はすでにベッドの上で身体を起こしていた。

《き、橘川さん……? 彼女さんと一緒ですか》

 美穂のようやくの第一声はそんな言葉だった。その、変に取り繕ったような声色を聞いて、橘川はなぜか直感した。美穂は、橘川が彼女の気持ちを知っているということを知らない。《め、迷惑でしたら切りますけど》

「迷惑なんかじゃないよ」

 すかさず橘川は言った。「なんならその、彼女がいないところへ移動するけど」

 早苗の顔を一瞥する。今の言葉は聞こえていただろうが、彼女は何も反応を見せずに、橘川の様子をじっと見守っていた。

《いえ、大丈夫です》

 そこですうっと息を吸う音がかすかに聞こえる。その一瞬の間で、彼女は何かの決心を固めたのだろう。《少し長い話になるかもしれません。聞いてくれますか?》

 穏やかなようで、どことなく寂しげな口調で彼女は言った。



 美穂の話は、さすがに橘川の理解の範疇を超えていた。とある事情で綾川チロリからキス写真を入手し、始めはその気など全くなかったにも関わらず、インターネットに写真を流出させてしまった。つまり、例のチロリのスキャンダルの根源は彼女にあるというのである。

 美穂は本当にそれだけしか話さなかったので、橘川は戸惑った。何か大事なところが抜けているような気がする。そう、動機が分からない。動機は話せないということなのだろうか。

 あ、と橘川は気がついた。そうだ。美穂は橘川がチロリの大ファンだということを知っている。となると、動機は恋破れた腹いせだということになるのか。

《チロリさん、引退するかもしれない》

 悩んだり、落ち込んだりしている暇はなかった。美穂から新たな問題を提起をされた時、橘川はそれらの感情をすべて忘れていた。

「い、引退?」

 思わず早苗と顔を見合わせた。彼女も大きく目を見開いている。チロリの話なのか、美穂――松尾和葉の話なのかは判断がついていないだろうが、それでも引退という言葉の響きにただならぬ事情を察したようだった。

《来月の仕事をキャンセルするみたいな話をマネージャーとしていたらしくて》

 美穂の声はどことなく怯えているように聞こえた。《コンサートで重大発表があるそうなんですけど、それって引退するって発表なんじゃないかって》

 橘川は溜息を吐いた。もう、何から考えていけばいいのか分からない。頭の中がグチャグチャでどんな答えを出してくれるのかも予測がつかない。チロリが引退だって? 先日の握手会で、確かにチロリがそんな雰囲気をかもし出していることを感じ取ったが、その後の自らがけしかけたファンたちによる決起で、すべてはチャラになったのではなかったのか。いったい、どんな答えを出せば――。

《それで、チロリさん――》

 しかし、美穂はまた新たな悩みの種をまこうとしていた。《私にもコンサートを観に来てほしいってメールしてきたんです。私が写真を流出させたっていうのは間違いなく知ってるんですよ? 私、すごく怖くて……チロリさん、私に何か復讐をしようって考えてるんじゃないかって》

「違う」

 その答えだけは、瞬時に口をついて出た。《え?》と心外そうな声を上げる美穂。「チロリちゃんはそんなことをする子じゃないんだ。きっと、美穂ちゃんが写真を流出させたのを知った上で、『別に怒ってないよ』ということをアピールしようとしたんだ」

 そして、それはなんだかとても悲しいことのような気がした。「じゃないと、俺はチロリちゃんのファンになることなんてなかった」



 美穂はしばし黙っていたが、やがて力なく《すみません》と呟いた。

《そうですよね》

 その言葉の後半から、声に涙が入り混じった。《私だってそう思う。ていうか、橘川さんがそう言うなら、そうとしか思えない。チロリさん、すごく良い人だし……》

 沈黙を利用して、橘川は答えを固めていた。チロリの引退の理由は十中八九、先のスキャンダルと、あの写真の男との別れにある。もちろん、本心では引退など望んではいないはずだ。

 橘川は思った。責任は自分にもある、と。美穂の想いにも気づかず、彼女の前でヘラヘラとばかりしていた自分にも。

 では、どうするべきか。チロリに引退を考え直してもらうため、自分にできることは何かないか。

 やがて、一筋の霹靂のように答えが空から降ってきた。

「俺、あいつに頼んでみる」

 《え?》と美穂は蚊の泣くような声でポツッと言った。「あの写真の男だよ。俺、やっぱりチロリちゃんが引退するのはおかしいと思うから、あいつに頼んで引退を止めてもらう。あいつじゃないと止められないような気がするんだ」

《あ、あの人と、知り合いなんですか》

「いや」

 橘川は静かにまぶたを閉じた。「知り合いってほどじゃないけど、一応手がかりはある」

 実は初めて写真を見た時から、確信していた。一年前のチロリのデビューイベントの日を思い起こす。その時に出会い、メイド喫茶で話をしたサングラスとつけヒゲで変装していた若い男――名前こそ忘れてしまったが、彼こそが写真の中のチロリの恋人に間違いなかった。手がかりは記憶の中に残る、彼がステージのチロリを見つめる放心した様子にあった。

「コンサートだ」

 橘川の声は自信に満ち溢れていた。「あいつは必ずコンサートを観に来る。難しいだろうけど、絶対に彼を探し出してみせる」




薄らと感づいておられるでしょうが、クライマックスに突入しています。

集大成となる次回からのコンサート編をお楽しみに。



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