63 夏バテモード
窓の外は緑溢れる中庭だった。庭の中心にある噴水が灼熱の太陽を浴び、時折虹を見せてくれる。そんな風景をぼんやりと眺めながら、羽山美穂は大きく溜息を吐いた。テーブルに並んだスパゲティやコーンポタージュといった料理たちは、なかなか減らない。向かいに座るマネージャーの仲田や、隣の菊田つばきはすでにもう完食して、世間話に花を咲かせているというのに。
「へえー、そうなんですかあ」
つばきが大きな目を丸めた。爽やかなショートカットの髪に、高級レストランには似つかわしくないカジュアルなティーシャツ。ロケが終わったため、すでに小悪魔モードを脱しているのだ。「うちの事務所なんてすごく小さいから、会計やらなんやらって仕事、全部社長の奥さんがやってるんですよ」
「それは大変だね」
しみじみとした様子で頷く仲田。美穂の位置からだと、眼鏡に陽光が反射して、まるで白いサングラスをかけているように見える。「こないだ亜佐美ちゃん、滝田亜佐美ちゃんのマネージャーも言ってたな。あそこはここ一年で急成長したから、ものすごく忙しいんだって」
「ああ、サニーダイヤモンドプロダクション――チロリちゃんのとこですね」
そのつばきの言葉に、一応は動いていた美穂の手がピタッと止まった。その様子に気づいたのか気づいていないのか、つばきは美穂に話を振ってきた。「そういえばチロリちゃんからコンサートのチケットもらった? 私、こないだもらったよ」
「いえ」
つばきを見ずに美穂は答えた。美穂の言葉に続きがあると思ったのか、つばきが不自然な間を空けて再び言った。
「実はちょっと心配してるんだよね」
頬づえをつき、宙に視線を泳がせる。「ひょっとしたらチロリちゃん、引退しようとしてるんじゃないかって」
「え?」
驚いてつばきの顔を見る。ついフォークを落とし、ガチャッと食器の上で音を立ててしまった。「ひょっとして、あの写真が原因ですか?」
「そりゃあ、詳しくは分かんないけど」
つばきは唇を尖らせた。「コンサートで重大発表があるって話なんだけど、こないだ共演した時、マネージャーさんと来月のスケジュールをキャンセルするだのなんだのって話しててさ」
心臓がドクンと高鳴った。ポタージュスープを一口啜るが、何も味がしなかった。
やめる? なぜ? 恋人とは別れたはずなのに? アイドルを続けるために別れたんじゃなかったの?
「和葉ちゃん?」
つばきが美穂の顔を覗き込んだ。「どうしたの? 今日はロケの時も元気がないような気がしたけど、夏バテモード?」
「最近、ずっとこうなのよ」
苦笑しながら仲田は言う。「今年は暑いからねー。さすがの和葉ちゃんもギブアップって感じ?」
「そ……」
美穂は必死に笑顔を作った。「そうなんですよ。どうも、頭がぼうっとしちゃって」
午後三時。ある特番のロケ先近くのホテル内レストランにて、彼女たちは少し遅めの昼食をとっていた。
チロリとその恋人のキス写真を、怒りに任せてネットに流出させてしまったことを悔いたのは、何も彼らが破局したことを知ったからではなかった。もちろん、その事実は美穂をより深く狼狽、落胆させたが、後悔はそれ以前――ネット利用者の間で写真が話題になり始めた頃にはすでに始まっていた。勝手な話である。写真がチロリを追い込み、恋人との仲を破滅させる――寸分狂わずに美穂が思い、望んだ展開になっているというのに。
怖いというのもある。いつかバレてしまうんじゃないか。写真を公開したゴシップサイトに、自身の携帯電話が発信の元だという記録が残っていて、いつか割り出されてしまうんじゃないか。しかし、それよりも、美穂の心を締めつけているのは、チロリに対する申し訳なさ、後ろめたさに違いなかった。
チロリさんがアイドルをやめる?
たった今、つばきに聞かされたその言葉は、美穂の心に新たな波をもたらした。それは疑問と焦燥だった。チロリがどんなことを考え、どんな結論を出したのかは分からないが、もしそれが本当だったら、話はまるで見当違いな方向に加速してしまっている。
いや……。
美穂は頭を抱えた。『見当違い』なんてとんだ笑い種だ。そうなることだって充分に予測がついたではないか。自分の子供じみた行動がすべてを破滅させてしまったのだ。綾川チロリの全てを。
「――ねえ、どう?」
「え?」
美穂はようやくつばきに何かを尋ねられていることに気がついた。「あ、ちょっと考えごとしちゃってました。なんでしょう」
「チケットもらったけど、その日は私、地方に行かなくちゃいけないんだ」
初めて話すように、端折ることなく繰り返してくれた。「美穂ちゃん、まだもらってないんだったら私のあげるけど……」
その日は――休みだった。でも、それがいったいなんだというのだ。
「いいです」
美穂は力なくかぶりを振った。そして、誰にも聞こえないように「チロリさんのコンサートを観る資格なんて、私にはないんです」と小さく呟いた。
帰りはロケバスだった。希望して窓際の席に座ったが、めくるめく景色は、美穂に何も与えてはくれなかった。自宅付近まで送ってもらい、一人でバスを降りた時、西の空が薄らと赤く染まっていた。
引退か。
もし、チロリのためにしてやれることがあるとすれば、自分も引退して、少しでもチロリの生きやすい芸能界を構築することだろうか。ただ、それはチロリの引退がつばきの早とちりだった場合にだけ意味をなすことだろう。なぜなら、そんなことぐらいでチロリが引退を考え直してくれるとは思えない。
私にできることは何もない。
あきらめたように溜息を吐き、自身の長い影を見下ろしながら歩き始めた時、携帯電話の着信音が鳴った。何か仕事の用事だろうかと予想したが、鳴ったのはプライベート用の携帯だった。
誰だろう。
少し訝しがりながらも、美穂は何気ない気持ちで携帯のモニターを見た。そして次の瞬間には目を大きく見開いていた。
『ゴメン、和葉ちゃんに私の初コンサートのチケット渡すの忘れとったね。当日、係りの人に名乗れば無料で入れるようにするけん。三十一日、暇やったら来てねー』
――綾川チロリからだった。メールを読んだ瞬間、美穂は地球の果てまで吹き飛ばされてしまいそうなほどの衝撃を受けた。顔が青ざめる。日に焼けた腕から汗が消え去り、代わりに鳥肌が浮かび上がってきた。
な、な、なんで!?
思わず叫びだしてしまいそうだった。写真を流出させたのが美穂だということは、間違いなく分かっているはず。なぜ、自分の人生を滅茶苦茶にした相手を記念すべき初コンサートに招待しようとする?
この時美穂が覚えた感情の中で最も大きな割合を占めていたのは恐怖だった。
美穂は取り乱した。もうわけが分からない。誰かに相談しようと思った。そして、無意識のうちに電話をかけ、やがて繋がり、相手の声を聞いてから、ようやく我に帰った。
《もしもし? 美穂ちゃん?》
おろおろと目を泳がせながら携帯を握り締める美穂の脇を、音もなく自転車が過ぎて行った。
ど、どうしよう。なんで私、橘川さんに電話かけちゃったんだろ。