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62 参加表明

 『ぶるうす』での仕事を終えた真一は、もちろん吉祥寺の綾香と暮らしていた家ではなく、杉並区高円寺に位置する、悪友の的場晴夫のアパートへ帰った。新たな住居が確保できるまで、世話になっているのだ。

 午後七時四十分。真一が部屋に上がった時、的場はトランクス一丁で寝転がり、テレビを観ていた。六畳一間の小さな部屋だ。衣服やらコンビニ弁当の食べかすやらが、あちらこちらに散らばっている。『いつまでもいてくれていいぜ』と的場は言うが、はっきり言っていつまでもいたくはない場所だった。

「おう」

 的場は顔だけをこちらへ向けた。短く刈り込んだ髪を茶色に染めている。「綾川チロリは来たのか?」

「いや……」

 ゴミを拾い集め、空いたスペースに座る。的場は「ふうん」と返事をし、またテレビに視線を戻した。

 綾香のもとを去ってから三日が経過した。ぼちぼち綾香が『ぶるうす』を訪ねてくるのではないかと踏んでおり、それを的場にも話していたが、一向に綾香は姿を見せなかった。少し意外ではあったが、納得してもいる。綾香もきっと、真一の存在が先々の芸能活動の妨げになるということを遅れて気がついたのだ。それならそれで話は早い。もし、『ぶるうす』を訪ねてきても追い返す気でいたのだから。

「もったいねえよな」

 汚い尻をボリボリとかきながら、的場は言った。「あの綾川チロリをフッちまうなんてよ。アイドルの彼女なんて、もう二度とできねえぞ」

「アイドルと付き合ってたんじゃなくて、付き合ってたヤツがアイドルになっちまったんだよ」

 ショルダーバックからコンビニで購入した缶ビールを二本取り出す。がさがさという袋の音に反応して、的場が飛び起きた。

「おお、気が利くじゃねえか」

 早くもプルタブを指に引っかける。真一もそれにならい、缶を開けた。

「まあ、急に押しかけちまったしよ」

 それから、二人で乾杯をし、つまみもなく宴会がスタートした。

「うちの班長の話ではよ」

 プハアと息を吐いてから、的場が言った。彼の仕事は大工だ。「なんかニュースかなんかで、綾川チロリが破局したって報道されてたんだってよ」

「え?」

 真一は驚いた。たった三日前のことなのに、もうそんな報道がなされているというのか。いや、それより、マスコミにバレているということは、綾香自身がマスコミに『別れた』と明言してしまったということか。詳細を知ろうにも、この家はインターネットがないため、情報収集に乏しい。

 綾香は自ら真一を忘れようとしている。それが本当なら、と真一は考える。それが本当なら――少しショックかもしれない。おそらく、まだ心のどこかで綾香のもとへ戻りたいという自分勝手な気持ちがあったのだ。それが叶うことは、もうなくなってしまった。少なくとも、向こうから復縁を持ちかけてくることはないだろう。いや、当然こちらからも、そんなことはしない。

 そして、少し安心してもいた。家を出た日に送ってきた綾香のメール。『引退するけん』という言葉はさすがに真一の心を動かしかけたが、引退もきっと思い直してくれたに違いない。

 俺が選んだ道、そして綾香が選んだ道だ。俺たちにとって、これが何より正しい道なんだ。

 心にそう言い聞かせ、真一はグッとビールを一気飲みした。「おほ、良い飲みっぷり」と的場の冷やかす声が聞こえた。



 午後九時を過ぎた。晩酌が終わり、バッタリと寝込んでしまった的場を尻目に、真一は一人テレビを観賞していた。

 歌番組に綾川チロリが出演していた。生放送ではないので、まだ真一と付き合っている頃のチロリだろう。お馴染みのハットをかぶり、ノースリーブのシャツとミニスカートを着用している。テーブルとソファが並べられた洋間のようなセットで、司会者とマンツーマントークを繰り広げている。

《今月の末にいよいよ初のワンマンコンサートがあるんですよー》

 微塵の陰りもない笑顔でチロリは言った。《もう、今から楽しみで楽しみでしかたがなくって。あ、もうオンエアされる頃には終わっちゃってるのかな》

 コンサートは八月三十一日。今日が二十六日なので、五日後ということになる。

《家族とか友達とかは観に来てくれるの?》

 司会者はベテランの男性俳優だ。親が子に向けるような温かい眼差しで彼は尋ねた。

《えーっと、家族はちょっと来れないんですけど》

 頬をポリポリとかくチロリ。《友達は何人か来てくれると思います。チケットを渡しときますんで》

 ということは、収録日は八月の上旬辺りかななどと予想しながら、真一は自らの手もとを見やった。『綾川チロリ、プレミアムコンサート』と書かれたチケットを指先でつまんでいる。二週間ほど前に綾香にもらったものだ。

 深夜、パソコンに向かい、『チロリンズルーム』の管理作業を行う真一の視界をさえぎるように、綾香がヒラヒラと見せつけてきた。

『特別にプレゼントしてあげるっちゃけんね。ちゃんと休み取っときいよ』

『誰がそんなもん観に行くか。バーカ!』

 そう言ってクズかごにポイと捨ててみせた時、綾香は『ギャー!』とやかましく叫んで拾い直していた。その情景を思い出し、真一はふと口もとを緩める。

 ――観に行こうと思う。

 只今の真一ランキングは一位松尾和葉、二位プリンセス雅、三位滝田亜佐美。ここ数ヶ月、このベスト3は不動のものとなっているが、彼女らの座を脅かす有望新人アイドルも次々と出てきている。しかし、ただ一人だけ、どんなことがあってもランクを落とすことのないアイドルが存在する。

 そう、綾川チロリだ。

 ずっと前から気づいていたことだが、綾香に対する愛情とは別に、真一はチロリに対しても、同等かそれ以上の想いを抱いていた。ファンの数がかなり増えてきた今であっても、自信を持って宣言することができた。自分はどこの誰よりも、綾川チロリのファンなんだと。

 チロリは一位の和葉のはるか上にいた。分かりやすく言うなら、チャンピオンといったところか。そして、それは今までも、これからも変わることはなかった。

 チケットを眺めながら考える。吉祥寺の家を出た時に、いくつかの荷物と合わせて、このチケットがなくなっているということに、綾香は気がついただろうか。気がついたのなら、自分がコンサートを観に来ると想像するだろうか。おそらく、それはないだろうし、それが理想でもあった。

 井本真一は綾川チロリにとって邪魔以外の何物でもない。

 自分の存在によって、コンサートが不穏な、陰鬱な影が落ちたようなものになってしまったら、それは何よりも悲しいことだ。だから、当日、コンサートに参加しているということをチロリに悟られないようにしなければ。

 そのためにはやっぱアレを使うのが一番か。

 真一は、一年前のチロリのデビューイベントの時のことを思い出していた。

 

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