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61 引退宣言

 その顔には見覚えがあった。どこで見た? 随分と前だったはず――そう、秀英祭だ。では、誰だったか。長い間行動を共にしていた気がする。いや、行動を共にしていたのは自分ではなく――内藤ちえ美だ。

 橘川夢多……?

 もう一度、男の顔をまじまじと見つめる綾川チロリこと池田綾香。どうにも垢抜けない白いティーシャツとブラウンのジャケットの重ね着に、グリーンの野球帽。帽子の下の顔はやはり、昨年の秀英祭でのサバイバルゲームの時、内藤ちえ美のパートナーだった――そして、松尾和葉が想いを寄せる男、橘川夢多に他ならなかった。

 なぜ、橘川さんがこんなところに?

 それはさほどの疑問ではないかもしれない。単純に、自分の大学の学園祭にゲストとして招かれたアイドルに愛着が湧き、ふと握手会に参加してみようと思ったのかもしれない。いやいや、愛着が湧いたなどというレベルではないはずだ。

 なぜなら、彼こそがこの騒ぎの発端だからだ。今や握手会の参加者たちは、まるでデモ運動のように声を張り上げて、自分にはもったいないほどのエールを送ってくれている。

 綾香の胸の中で何かが弾けつつあった。見覚えのある顔――橘川の存在により、思わずそこから目を逸らしてしまっていたが、やがて、ピントがこの光景の全容をとらえた。

 自分はそんなにまずい顔をしていたのか。そうかもしれない。彼らの真剣な眼差しがそう物語っている。自覚もあった。今日のこの握手会に対して、まったく熱意が湧かなかった。もちろん、それは井本真一のことで頭がいっぱいだったからだ。彼が戻ってきさえすれば、もう何もいらないと思っていた。前日矢上詩織に電話で話したとおり、本当なら、こんな握手会などすっぽかして、すぐにでも『ぶるうす』に真一を説得しに行きたかった。

 でも、違った。間違っていた。それを気づかせてくれたのは橘川と、彼の一声をキッカケに立ち上がり、自分を戒めてくれたファンの皆。

「がんばれ、チロリン!」

 やけに悲観めいたその声援によるものかもしれない。綾香は自分が泣いていることに、ようやく気がついた。

「ごめんね、みんな」

 精いっぱいの声を出したつもりだったが、涙が邪魔をして、ファンのエールにかき消されてしまう。でも、くじけちゃダメだ。手元にマイクなんてない。遠くにいるファンにまでへ声を届けるんだ。綾香はもう一度深く息を吸った。「みんな! ごめんね!」

 声は届いた。一瞬のうちに静まり返る観客たち。綾香は次の言葉を探したが、胸がいっぱいで何ひとつ出てきやしない。その時、誰かにマイクを差し出された。涙でかすむ視界の向こうにスキンヘッドと黒スーツ。南吾郎だった。



《みんな、本当にゴメンね》

 マイクを通して綾香は話し始めた。涙声で聞き取りにくいかもしれないが、一所懸命に気持ちを込める。《あの写真のことで、私もすごく悩んでて》

 それは嘘だと自分でも分かっていた。始めは確かに悩んだが、真一が出ていってしまったことで、どうでもよくなってしまったことも、また事実だ。ただ、敢えてそのことを打ち明ける意味はない。

 その時、列の後方に並ぶ詩織と田之上の姿に気がついた。彼らも参加してくれていたのか。二人とも、満足したような安堵したような、そんな表情を浮かべている。

《みんなにどうやって話せばいいか、全く分からなくて》 

 丁寧に丁寧に言葉を選ぶ。《でも、なんていうか、みんなから勇気をもらって、私、今ならちゃんと話せそうな気がして》

 ふと橘川に目を向けてみる。どうやら連行は免れたらしい。列から離れた場所で、真面目な顔をして綾香の話に聞き入っている。

《すごく心配かけたけど、もう大丈夫だから》

 涙を拭き取り、綾香は顔を上げた。そして、一時の間を置いた後、意を決したように言った。《あの写真の人とはもう別れました! でも、もう吹っ切ったけん、元気なチロリンを見せられると思うけん、来週のコンサート楽しみにしててね!》

 左手を腰に、右手をチョキにして額へ当て、チロリンポーズを決める。途端に、静まり返った会場が歓声に包まれた。再びエールを叫ぶファン。綾香と同じようにチロリンポーズを決めるファン。橘川も笑顔で拍手をしている。彼らに取り残される形で、詩織と田之上だけは眉をひそめ、信じられないといったふうに綾香を見つめていた。



 握手会は中断となってしまった。そのことにまた胸を痛める綾香だったが、中断に対して不満を口にする者が誰一人いなかったため、だいぶ救われた。

 ただ、別のことに不満を抱く者は存在した。

「なんてこと言うのよ!」

 スタッフルームに怒鳴り声が響く。「明日『ぶるうす』に行くんでしょ? もし真一さんが戻ってきてくれたら、ファンを騙すことになるんじゃないの? なんでなんでなんで!?」

 パイプ椅子に座り、スタッフが用意してくれたコーヒーを啜る綾香に、詩織がまくし立てる。田之上も「まあまあ」と詩織を鎮めようとしてくれたはいたが、彼の胸のうちも平静ではないのかもしれない。彼が真一と顔見知りだということは前に聞いている。

 二人は綾香の計らいで、スタッフルームの入室を許可されていた。

「そんなに怒らんでいいやん」

 両手で耳をふさぎ、綾香は唇を尖らせた。「さっきのことで、私、すごく元気づけられたんよ。でも、同時にすごく後悔した。ファンはあんなに私のことを想ってくれとうとに、私は真一のことばっか考えてさ。やっぱり、アイドルはファンを第一に考えないかんよ」

「それはそうだろうけど」

 ショートカットの髪が少し乱れている。それは詩織の狼狽を直に表していた。「今日のこと、芸能ニュースとかで紹介されちゃうかもしれないよ。真一さんがそれを見たらどう思うか……」

「いや、もういいんよ」

 綾香が苦笑しながらそう言うと、詩織と田之上はキョトンとして顔を見合わせた。「詩織には悪いけど、明日『ぶるうす』には行かない」

「はあ!?」

 詩織が綾香に食いかかる。「何、意味不明なこと言ってんのよ! なんで仕事のために真一さんと別れなくちゃいけないの!」

「そ、そうだよ」

 田之上も綾香に詰め寄った。詩織とは違い、なだめるような口調だ。「綾香ちゃんが別れることはないよ。真一さんだってきっと分かってくれる思うし、ファンの人だって――」

 綾香は落ち着いた様子でコーヒーを飲み、それからゆっくりと首を振った。

「誰も別れるとは言ってないやん」

 「え?」と二人の訝しげな顔を前に、続ける。「来週のコンサートまで、ファンを第一に考えたいけん、皆にチロリンスマイルを見せたいけん、それまで真一とは距離を置くってだけの話」

 「ただ……」と綾香は付け加えた。田之上がゴクンとつばを飲む。「その先もずっとファンに元気なチロリンを見せられるかは自信がないんよ。またいつか、こんなふうに落ち込んで、ファンのことを一番に考えられんくなったら嫌やけん――詩織、本当にゴメンけど」

 その言葉に、詩織は腕を組みながら力なく首を横に振った。綾香が言わんとすることを察したのかもしれない。「来週のコンサートを最後に、私、引退する。真一を説得しに行くのはそれからでいいけん」

 

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