60 心ひとつに
『イッツ・パフォーマンス』が発売したばかりの頃、新宿にて、綾川チロリのささやかなイベントが行われた。もちろん、橘川夢多も大田早苗と一緒に意気込んで参加したが、人ごみにさえぎられ、生身のチロリを目にしたのはほんの一、二分程度の時間にとどまった。
というわけで、今回の秋葉原のCDショップでの握手会は、橘川にとって前回のリベンジの場といえるイベントだったわけだ。もっとも、握手会なのだから、間近でチロリを見ることもできるし、おまけに握手までできる。おまけにおまけに、数秒間会話することもできる。いわば勝利の確定したリベンジだといえる。
しかし、だ。長蛇の列に並ぶ橘川の顔に喜びの色はなかった。いや、正確には消えてしまった。男性スタッフの紹介と共にチロリが姿を現し、会場の客と共に『ワン、ツー、スリー、イエーイ』とチロリンポーズを決めた時までは心底から楽しんでいたはずだったが、ある時、胸に小さなしこりのような物の存在に気がつき、今ではそれがだいぶ成長してしまったようだ。
橘川だけではない。間違いなく周りの連中だって気がついている。淡々と握手をこなしていくチロリの顔にまるで覇気が見られないのだ。
その理由について心当たりはあった。少し前からネットで流出したチロリの男性とのキス写真だ。初めてその写真の存在を知らされた時、橘川も少なからず衝撃を覚えたものだったが、すぐに開き直っていた。チロリにだってもちろんプライベートはある。自分の前ではいつもの元気なチロリの姿を見せてくれていればいい。そう考えたのだった。
おそらく多くのファンもそうだろうと思う。インターネットの掲示板などで『裏切られた』『金を返せ』『もうファンをやめる』、そんな辛らつな言葉を吐き捨てるファンもいたようだが、橘川にとって、そんな連中はファンなどではない。プライベート画像が流出して、胸を病めているであろうチロリを更に暴言で追い込むなど、そんなヤツらをファンと呼べるか。
こんな時こそチロリを支えてやるのが本当のファンなんじゃないのか。
打ちひしがれた様子のチロリを見た橘川に、喜びはなかった。そのかわり、チロリのファンとしての心地よくも情熱的な使命感に似たようものが、胸の中を支配していた。そしてそれは、今日ここにいる周りのファンたちとも共鳴している。そんな予感があった。
数メートル先にチロリの姿がある。あと十人ほどでいよいよ橘川の番になる。チロリはいつものようにハットをかぶっていた。キャミソールにホットパンツというはつらつとした衣装もいつもどおりだ。ただ、その生気の抜けたような笑顔だけはチロリのものではなかった。
「おかしいよな」「やっぱり、あれ本当なのかな」。周りからこんな声が聞けるということは、やはり皆、今日のチロリのおかしさに気がついている。一部の野次馬のような見物客や、威勢の良い声で列を整えるスタッフたちを除き、皆が違和感を覚えている。誰が見てもつまらない映画なのに、全員がスタンディングオベーションを行っているような光景だ。誰かが先導しないと決して何も起こらない。
「あの、元気出してください!」
チロリと握手をするファンのエールが聞こえるまでの距離になった。若い女性だ。高校生やもしくは中学生にも見える。そんな若年のファンにまで心を見透かされてしまっている。チロリは今、どんな気持ちなのだろう。愛想笑いを浮かべるチロリの返事は小さくて聞こえなかった。その笑顔はなんだかあきらめのように見えた。
ふつふつと心の奥底から何かが煮えたぎり、湧き上がってくる。その正体は何かと自ら探ってみる。焦りのような、はたまた怒りのような、とにかく情熱的な感情。
引退の二文字がふと脳裏に浮かび上がってきた。チロリが引退する? なぜ? キス写真によってファンを裏切ってしまったから? 心ないファン(しつこいようだがファンではない)の罵倒に耐えられなくなったから?
そうだ、と橘川は直感した。チロリのあの様子は引退を決意した姿にしか見えないのだ。まるで、目の前に列を作るファンたちが、自分にとって何の関係もないかのような立ち振る舞い。昨日までの、『イッツ・パフォーマンス』を歌いながら、観客を煽るチロリとは別人に見える。
そんな状態で一週間後のコンサートの日を迎える気なのか。『クレセントムーン』を、『やっぱり博多が好きやけん』を、『イッツ・パフォーマンス』を歌う気なのか。自分と関係のない大観衆を前に、うつろな笑顔を振りまきながら。
綾川チロリじゃないと思った。そんなチロリは、今まで橘川が愛してきた綾川チロリじゃない。
今日は残念ながら早苗は用事で来れなかった。そのことが一因となったのかもしれない。絶対的な存在である恋人の早苗は、もしくは恋敵といえなくもない綾川チロリへの橘川の愛情をすんでのところで抑止してしまうに違いなかった。
「チロリちゃん!」
橘川の番まで、あと五人ほどであったのにも関わらずだ。
チロリが目を丸めて橘川を見る。チロリと握手をする橘川と同い年ぐらいの男性も、チロリの横に立つスタッフも、橘川の前に並ぶ中年の男性も、おそらく後ろの親子連れも、皆が皆、橘川を注目していた。
橘川の次の言葉を待つ沈黙。ファンがチロリの名を呼んだぐらいで、これほど場の空気が変わるのは異常であろう。実際、イベントが開始して以来、会場のあちらこちらから声援が飛んでいたのだ。
それほど橘川の声には鬼気迫るものがあった。
「お客さん」
まるで橘川をなだめるような笑みを浮かべながら男性スタッフが彼に近寄ってくる。「自分の番になってからお願いしますねー」
橘川は真っ直ぐにチロリを見つめ続けた。そして、チロリも橘川から目が離せない。彼らを含め、スタッフの声など誰も耳に入っていないようだった。
「チロリちゃん!」
橘川はもう一度そう呼んだ。「何をメソメソしているんだ。俺たちはチロリちゃんの笑顔を見に来たんだぞ。そんなチロリちゃんを見に来たんじゃないんだ!」
「お客さん、ちょっと」
二人のスタッフに両脇をつかまれる。彼らはそのまま橘川をどこか、おそらくスタッフルームあたりに連行する気のようだ。
「キス写真がなんだっていうんだ!」
列から抜けさせられながらも、橘川は続けた。「そんなの、俺たちは全く気にしてなんかない。チロリちゃんがプライベートでどんな顔を見せていても、俺たちには関係ないことだ! 俺たちが好きなのは、ファンの前でいつだって笑顔でいてくれるチロリちゃんなんだ」
「いい加減に……」
橘川を抱える一人のスタッフの力が強まろうとした時だった。
「そうだ!」
列のはるか後ろのほうで男性の声が聞こえる。皆の視線がそちらへ移動する。「それに、お前の悩みは俺たちの悩みでもあるんだ。一人で抱え込むな!」
橘川より少し年長の土木作業員ふうのなりをした男性だった。それに続いて、次々と別の、しかしながら同じ信念を持ったファンたちの声がいたるところで上がる。
「何があっても、俺たちはあんたを応援するぞ!」
大人も。
「チロリちゃん、お願いだから元気出して!」
子供も。
「いつものチロリンらしく、笑い飛ばしてください!」
お姉さんも。五人、十人、二十人と、たちまち会場は騒然となった。騒然となったが、彼らの気持ちは一つだった。
呆気にとられた様子でたたずむスタッフたちの間で、橘川は満足げに頷いた。その視線の先には今もチロリがおり、チロリもこちらを見ながら、戸惑いつつも頷いてくれた。