59 友情
「真一?」ともう一度呼びかけてみた。やはり返事はない。綾香は数秒間、部屋の中心でぼうっとたたずんでいたが、やがてははーんと真一の魂胆に思い当たった。
まーた、驚かせようと思っとうっちゃね。
こんな時にまでなんだ、と怒りたかったが、自分を元気づけようとしてくれているのかもしれない。今回は許そう。
寝室まで歩き、押入れの前で立ち止まる。じっと襖を見つめた後、綾香は勢い良く襖を開けた。しかし、そこに真一の姿はなかった。続いてべランダを捜す。浴室を捜す。トイレを探す。どこにもいない。
外出してるのか、となんだか拍子抜けしたような気持ちになりながら、洋室のソファに倒れ込むようにして腰かけた。そこでまたぼうっと彫刻像のように動かなくなってしまう綾香。その時、ぐうっと漫画のようにお腹が鳴り、なるほどと合点がいった。
そういえば二人とも朝から何も食べていない。きっとどこかで食料を調達してくるつもりなのだろう。ひょっとしたら一人だけで外食しているのかもしれないが、その場合は説教しなくては。抜け駆けについてもそうだし、この部屋の有り様はなんだ。何もかも点けっぱなしで、鍵もかけていない。
それならばと綾香は立ち上がった。とりあえずパソコンの電源は落とそう。先ほどから、ウサギのキャラクターがチラチラと動き回るスクリーンセーバーのアニメーションが気になってもいた。
スクリーンセーバーを解いてしまうと、再びあのキス画像が現れるのではないかと考え、少しだけ躊躇したが、意を決し、ガタガタと適当にキーボードを叩いてスクリーンセーバーを解除した。
「ん?」
綾香の目はディスプレイに釘づけとなった。キス画像はなかったものの、何か、何か文字が書いてある。テキストファイルが立ち上げられ、そこに小さめのフォントで短い文章が。
目もとを指でこする。自分の目がおかしくなってしまったのではないかと疑った。鼓動が速くなる。それに前後して息づかいが荒くなり、汗が滴り落ちる。
「はあ!?」
そう叫ぶと、ディスプレイにいくらかつばが飛んだ。「なんで!? なんで!?」
もちろん、その答えは返ってこない。綾香は深呼吸して、心を精一杯落ち着かせてから、もう一度その文章を心の中で読み上げた。
『お互いのために、俺たちは別れたほうがいいと思う。突然で悪いな。コンサート頑張れよ。じゃあな』
次の瞬間、綾香は飛ぶようにデスクを離れ、床に放ったハンドバッグを手に取った。そして、携帯電話を中から取り出した。
綾香は大きな溜息を吐き、またソファに腰を下ろした。テーブルの上に置いた携帯電話を一瞥し、力なくうなだれる。電話をかけても繋がらず、メールを送っても、やはり返事はなかった。
「なんで……?」
もう一度溜息を吐く。
ただ単にフられたわけではないと思う。日頃から真一の自分に対する気持ちはひしひしと伝わっていた。となると、可能性が高いのは今回のスキャンダル。真一がスキャンダルの元となってしまったことに責任を感じてしまったのではないか。
もちろん綾香は納得がいかない。そんな別れかたなどあるものか。綾香だって真一のことが好きだ。確かにアイドルの活動において真一の存在は些かの障害になったかもしれないが、だからといって彼が去っていくのでは意味がない。
アイドル活動と真一。
綾香はその二つを初めて天秤にかけてみた。自分にとってどちらがより大切か。答えは明確である。真一だ。彼が戻ってきてくれるなら、芸能界を引退してもかまわない。
テーブルの上の携帯電話をもう一度手に取る。最後のチャンスとばかりに、綾香はメールを打ち込んでいった。『お願いだから戻ってきて。私、引退するけん』。
メールを送信した直後のことだ。突然、携帯の着信音が鳴った。ハッと発信元を確認する。――矢上詩織だった。
《ちょ、ちょっと……!》
詩織は慌てた様子でまくし立てた。《あんた、インターネットでキス写真が流出してるよ。どうすんの? これ、ヤバイんじゃないの? ねえ》
はあと綾香はまた溜息を吐いた。はっきりいって今はそれどころではなかったが、心配してくれる親友にしっかりと説明しなくては。ファンの皆に正直に打ち明けて再出発を目指すことにした、と。
《そうか……》
話を聞き終えた後、残念がるようなホッとしたような微妙な響きで詩織は言った。《まあ、でも良かったよ。真一さんと別れさせられなかったことだけでも》
その言葉に思わず涙腺が緩んだ。
「詩織い……」
涙声で親友の名を呼んだ。「ダメっちゃん。帰ってきたら、真一おらんくなっとってさ。パソコンのメモ帳に、メモ帳に……」
そこでついに我慢ができなくなってしまう。詩織を心配させたくはないという気持ちとは裏腹に、歯止めが利かない。抑えようとすれば抑えようとするほど、口から次々と嗚咽が溢れ出してしまう。
綾香が泣きながら事情を話す間、詩織は一言も喋らなかった。親友をどう慰めたらいいか、模索しているのかもしれない。
嗚咽が少し落ち着いてから詩織はついに口を開いた。
《行こう》
「え?」
涙声のまま、綾香は聞き返した。
《私が一緒に付き添ってあげるよ》
勇気に満ちた、自信に満ちた口ぶりだった。《真一さんだって生活があるんだから。『ぶるうす』を辞めたってわけじゃないんでしょ。一緒に行って説得しよう》
直接会って説得する。それは綾香も考えたことだ。
「でも、追い返されたらどうしよう」
心配げに綾香は尋ねた。
《追い返されたらまた行けばいいでしょ》
怒ったような口調で詩織は答えた。《私はいつでも、何度でも付き合ってあげる》
「――ありがとう」
綾香はグスッと鼻を啜った。「詩織がいてくれて本当に良かった」
綾香はシャワーを浴びて、汗を洗い流した。パンティとシャツのみの姿で洋室へ戻り、ふうと一息吐きながらソファへ座る。だいぶ気持ちは楽になった。
今日は真一も休みだ。明日は握手会を含め、朝から晩まで仕事が詰まっている。真一に会いに『ぶるうす』へ行くのは明後日の仕事前に決まった。詩織もたまたま予定がなかったそうだが、もし詩織が一緒でなくとも会いに行くつもりだった。
ただ、どんな言葉で真一を説得すればいいのだろう。何を言っても真一は取り合ってくれないような気がする。実際、『引退するけん』と書いたメールを送っても、何も返事を寄越してこないではないか。
詩織との会話を思い出す。
『別に明日でもいいばい』
綾香は自嘲的に笑った。『どうせ引退するつもりやけん、仕事なんてもうすっぽかしてもいいばい。握手会なんかする気にもなれんし』
《それはダメ》
はっきりと詩織は言った。《ファンの人を裏切る綾香なんて見たくない》
『詩織……』
《それに》
ひとつ間を置いてから詩織は続ける。《私も田之上くんも、きっと真一さんも、アイドルのあんた、綾川チロリが大好きなんだ。あんたはアイドルを続けなくちゃダメ。今度引退するなんて言ったら絶交だからね》




