58 異様な光景
喫茶店『ビリーブ』店内には重苦しい空気が立ち込めていた。もっとも、この空気を重たく感じているのは綾香だけかもしれなかった。カウンターで男性客の相手をするマスター、そしてその男性客もいたって和やかな雰囲気だし、目の前に座る南吾郎は椅子にもたれかかり、美味そうに煙草をふかすばかりだ。
綾香は待っていた。自分からは何も言うことはないと、南が口を開くのをじっと待っていたのだ。しかし、彼はいつになっても話を始めようとはしない。今吸っている煙草が終われば話し始めるかもしれない。その時までの辛抱だと自分に言い聞かせていた。
マスターがアイスコーヒーを盆に乗せて運んできた。綾香は礼を言ってそれを自分のもとに手繰り寄せた。これはなかなか良い味方を得たものだ。とりあえず、アイスコーヒーを飲んで、この沈黙を乗り切ろう。
「で、まだ続いてるのか?」
ストローから口の中へコーヒーが一滴だけこぼれた瞬間、ついに南が発言した。手にはまだ吸いかけの煙草を持っている。なんという自分勝手なタイミングだ、と綾香は思った。
「何が?」
攻撃的な口調で尋ね返す。それに対し南は「金髪野郎のことだよ」とめんどくさそうに答えた。
チューとまたコーヒーを喉に流し込みながら綾香は考えた。本当のことを言うべきか、それとも嘘で乗り切るか。
無理だと思った。ここでは上手く騙せたとしても、いずれはバレてしまうだろう。綾香は正直に答えた。
「今も一緒に住んどる……」
「ふん、やっぱりな」
南のその返事に驚き、綾香は彼に目を向けた。灰皿に煙草をもみ消しながら、彼は続ける。「前からネットでも噂になってやがったし、お前は俺が家まで送り迎えするのを嫌うだろ。間違いなく男と住んでいるとは思っていた」
「そ、それなのに」
言葉を詰まらせつつ、綾香は言った。「なんで口出しせんかったと? アイドルは男子との交際厳禁やろうもん」
ホットコーヒーを一口飲み、ふうと息を吐く南。スキンヘッドの頭をポリポリとかいてから、綾香の質問に答えた。
「俺の考え方としては、別にバレなきゃいいと思ってるからな。お前の歌でも言っているとおり、アイドルなんて所詮飾りだ。プライベートのお前がどうであれ、そっちの飾りのほうをしっかり磨いときゃあ問題はない」
綾香は意外に思った。そして拍子抜けした。もし、真一のことが南にバレたら、絶対に別れさせられると信じ込んでいたからだ。ただし、そんなことでホッとしている場合ではない。彼は『バレなきゃいい』と言っているのだ。
「でも……」
上目遣いでそろそろと綾香は言った。「バレてしまったやん」
またコーヒーカップに口をつけ、南は頷いた。
「で、どうしたい?」
そのアバウトな問いかけに、綾香は顔をキョトンとさせた。
「どうしたいって……?」
南は眉をひそめ、それから大きな溜息を吐いてから言い直した。
「金髪野郎と別れたいのか、別れたくないのか、どうしたいんだ」
「そ、そりゃあ」
戸惑いながらも綾香は答える。「できることなら別れたくないよ。でも、そんなことできると?」
「別れたくない場合は……」
また煙草に火をつけ、ふうと紫煙を吐き出す南。「二つ選択肢がある」
「二つ?」
「ああ」と頷いてから南は続ける。
「一つは芸能界から綺麗サッパリ足を洗う。もう一つは男と同棲してるってことをファンの前で潔く認める」
「認める?」
もちろん、引退など考えられなかったため、後者の選択肢に興味を持った。「認めるって……。そんなことしたら、もうアイドルとしてはやっていけんよね」
「お前次第だ」
間髪入れずに南は言った。「当然、一部のファンが離れていくだろうが、そいつらを再び引き戻せるかどうかはお前に懸かっている。その自信がないのなら、うちはもう面倒を見きれん。さっさと引退するか、金髪野郎と別れちまえ」
引退はしたくない。真一と別れたくもない。それならもう、その選択肢しか残っていないではないか。しかし、真一との同棲を打ち明けながら、それで去っていくファンを取り戻す。そんなことが自分にできるのだろうか。
「ねえ」
ふと思いつき綾香は言った。「ん?」とあごをしゃくり上げる南。「彼とはとっくに別れたってことにして、こっそりと付き合い続けるってことはできんと?」
「それでも別にかまわん」
南はまた間を置かずにキッパリと断言した。「ただ、そうすると、この先お前を応援してくれるファンを裏切り続けることになる。お前にそれができるのかどうかが問題だ」
綾香は答えなかったが、心は決まっていた。
できるわけがない。今のところ三ヶ所を終えた握手会ツアーの参加客たちを思い出す。彼らがくれた励ましの言葉を思い出す。彼らを裏切り続けるなどできるわけないではないか。
「認める」
綾香は南を真っ直ぐに見つめ、はっきりと言った。「ファンの皆にキチンと認めて、これからも真一と付き合っていく」
正午を前に吉祥寺駅へ着いた。そういえば午後からは真一と遊びに行く約束をしていたのだ。早く帰らねば。
南に自分の意志を伝えたことで、綾香の心は先ほどとは比べ物にならないほど軽くなっていた。そう、何も心配することなどないではないか。ファンの皆ならきっと分かってくれるはず。彼女にはもう不安などなかった。
真一にもしっかりと事情を説明しなくてはならないなと思う。綾川チロリの彼氏として、彼も公の場に晒されるかもしれない。ただ、彼なら理解してくれるだろうという自信もあった。
自宅前の細い路地に入る。心と比例して足取りもだいぶ軽い。それどころか逆に、思わずスキップしてしまいそうだった。ひょっとしたら、今回の一件は真一との愛を、そしてファンとの絆を確かめ合う重要なイベントだったとさえ思えてくる。
そこで松尾和葉のことを思い出す。写真の流出を知った時は彼女に激しい憎悪を覚えたものだが、それも今ではほとんど消えてしまっている。むしろ彼女が気に病んでいないかと心配になりさえもする。
落ち着いて考えてみれば、綾香は彼女に恩を売った覚えはあるが、恨みを買った覚えなどはない。始めは、何らかの理由で彼女が自分を追い込もうとしたのだと予想したが、本当はただ手違いが起こっただけなのではないか。そう考えたほうが現実的だ。何度かけても電話に出ないのは、きっと仕事中だったからだ。
あとでもう一度電話してみるか。
そう心の中で呟きながら、綾香は自宅の玄関ドアを開けた。
――異様だった。
玄関の鍵は開いている。明かりも点いている。パソコンのディスプレイも光を放ったままだ。ただ、あるべきものの姿がない。
「真一?」
部屋に上がり、キョロキョロと辺りを見回しながら、綾香は呼びかけた。しかし、どこからも応答はなかった。