57 愛してる
さて、どうしたもんかな。
井本真一はパソコンのディスプレイと向かい合っていた。そこに映るのは、彼と彼の恋人である池田綾香がキスをしている画像だ。真一はキスをしながら綾香を真っ直ぐに見つめており、綾香は目線をカメラ、すなわちこちらへ向けている。元は携帯カメラの画像であり、それを拡大しているため、画質は少々粗い。それでも知っている者なら、安易に二人の顔を判別してしまうだろう。
真一はいつこの写真を撮影したか覚えていなかった。おそらく付き合い始めて間もない頃だろう。綾香のパーマをかけた明るい茶色の長髪は、その当時のものだ。
真一はソファに腰かける現在の黒い髪の綾香の様子を垣間見た。口を真一文字に結び、ホットパンツから伸びた白い足を雑に組んでいる。彼女は先ほどからずっと誰かに電話をかけようと試みているようだが、なかなか繋がってくれないらしい。マネージャーかなと思ったが、尋ねてみると違うらしい。そして誰なのかも教えてくれない。
「もう!」
癇癪を起こしたように携帯電話を床に叩きつける綾香。その騒音が階下に響いてしまったに違いない。
真一は再びディスプレイに顔を向け、ふうと溜息を吐いた。
いつ頃からか、そして発信源は定かではないが、このキス画像がネット上に流出してしまった。真一も綾香も全く気がつかなかいうちに、匿名掲示板などのコミュニティサイトで爆発的に広まってしまい、今日になって真一が管理運営する綾川チロリ非公式ファンサイト『チロリンルーム』にまで画像が貼られることとなった。
先ほど、真一がこのことを綾香に伝えた時の彼女のうろたえぶりは尋常ではなかった。何やら叫びながら部屋中を歩き回ったり、頭を抱えてソファに倒れ込んだり。真一の所持するDVDを壁に投げつけた時は、さすがに彼女を非難した。
もちろん、彼女の気持ちも分からないでもない。明日にはツアーを締めくくる秋葉原での握手会、来週八月三十一日には渋谷の『渋谷スパイシーーローズ』にて初のコンサートを控えている。そんな順風満帆な彼女を襲った予期せぬスキャンダル。彼女が取り乱してしまうのも無理はないと思う。
「元はといえば、お前がこんな写真を人に送るのが悪いんだろ」
真一はディスプレイに顔を向けたまま言った。「自分でまいた種だと思ってあきらめろ。もうどうにもならねえんだからよ」
落ち着いた声色だが、それは綾香を落ち着かせるためのもの。彼にも動揺がないわけでは決してない。
綾香は何も答えなかった。頭を抱えて、うな垂れているばかりだ。
真一は何気なく自分の手元を見た。そこに先ほど綾香が壁に投げつけた松尾和葉のDVDがあった。パッケージに映る水着姿の和葉を眺めながら、「さて、どうしたもんかな」ともう一度呟いた。
八月も下旬に差しかかったある日。時刻は午前十時前だ。奇しくもこの日は二人とも休日で、午後からどこかへ遊びに行こうと話をしていた。
「どうすりゃいいっちゃろ……」
綾香は遠い目をして、独り言のように呟いた。「ファンの皆は私に裏切られたって思うとかいな。握手会やコンサートにも来てくれんっちゃないかいな」
「こんぐらいのスキャンダルはよくある話だろ」
真一は立ち上がり、綾香のもとまで歩いた。「お前は清純派アイドルってわけでもないし、ファンのヤツらだってちっとは覚悟してたはずだぜ」
そして彼女の隣に腰かける。「だいたい、握手会はともかくコンサートは高い金出してチケット買ってんだから、観に行くしかねえだろ」
励ましてやったつもりだが、綾香は逆に泣き出してしまいそうな表情になった。
「そうやん」
また頭を抱える。「お金出して買ってくれとうっちゃん。じゃあ、当日はもの凄いブーイングイを浴びるっちゃろうね。私、耐えられるかいな」
真一はなんとも答えようがなかった。
綾香の言うとおり、ブーイングを浴びる可能性は確かにあるだろうが、そもそもスキャンダルはまだネット内でのもので、写真週刊誌やワイドショーで取り上げられたわけでもない。ひょっとしたら、コンサートの観客の多くはスキャンダルのことなどまるで知らないのではないかという思いもある。ただ、もしその当てが外れたら残酷なので、口には出せない。コンサートまでの一週間のうちに知られてしまう可能性だってある。
「マネージャーは知ってるのか?」
ふと思い当たり尋ねてみた。黙って首を横に振る綾香。マネージャーがスキャンダルのことを知らないのか、そのことを綾香が知らないのかは判断しかねるが、間違いなく後者であろう。綾香だってつい先ほど知ったばかりなのだし、マネージャーが知っているのなら、すでに連絡を寄越してきていてもよさそうだ。真一の言葉は質問の形態を借りた、マネージャーに知らせたほうがいいんじゃないのかという提案なのだ。
しかし、綾香は動かない。彼女のマネージャーについてそれほどよく知っているわけではないが、綾香の話ではなかなかに厳しい男なのだそうだ。スキャンダルのことで彼に叱られるのが怖いのであろう。
その時、床に放ってあった綾香の携帯電話の着信音が鳴った。彼女の成功の代名詞ともいえる『イッツ・パフォーマンス』の着うただ。綾香はすぐさま携帯を拾い上げ、発信元を確認し、少し驚いた表情を見せた。
「向こうからかけてきた……」
マネージャーかららしい。
「ちょっと行ってくるばい」
短い電話を終え、綾香は立ち上がりながら言った。「話し合いせにゃいかんけん。――そんなに時間はかからんと思うけど」
帽子をかぶり、ハンドバッグを手に取る。外出する時の基本的なスタイルだ。
「おう」
またパソコンのディスクに向かいながら、ぶっきらぼうに真一は答えた。「せいぜい怒られて帰ってこい。ヌード写真集でも出すんなら、買ってやってもいいぜ」
玄関へ向かいかけていた足を止め、綾香はブスッとした顔で振り返った。そして一言、とんでもない一言を呟いてから洋室を後にした。
な、なんだと……?
真一は部屋の中心あたりに突っ立ったまま固まってしまった。綾香の後ろ姿をじっと見つめながら身体中から滲み出る汗の気配を感じる。すべては綾香の一言が原因だった。ひょっとしたら彼女は真一に聞こえないように呟いたのかもしれなかったが、しっかりと聞こえてしまった。
『全部、あんたのせいっちゃけんね』
バタンと玄関のドアが閉まる音が響く。綾香の姿が見えなくなってからもそちらを見つめ続ける。おそらく彼女が出て行ったことに気がつかなかった。それほど彼は狼狽していた。
俺のせい……?
やっぱり、と真一は思った。やっぱりそうだったのかと。
綾香はアイドルの仕事が何よりも気に入っていた。まるで、それが生きがいだというように真一に語ったこともあった。その生きがいの足枷となる唯一の存在にやはり、彼女も気がついていたのだ。
井本真一……。そう、この俺だ。
それならば自分はどうするべきか。答えは一つしかないではないか。
なぜなら――。
誰よりも綾香のことを愛しているのだから。
真一はパソコンのデスクに着いた。そして、カタカタとキーボードを操作した。