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56 取り残された人

 どこからか聞こえてくるセミの鳴き声と焼けるような陽射しの中、羽山美穂は自宅マンションの前でキョロキョロと左右を見回しながらたたずんでいた。日除けのため珍しくハットをかぶり、いつものように変装用の眼鏡をかけている。ブカブカの白いティーシャツの脇の下の部分に早くも汗が滲んでいる感触がある。

 左右へ伸びる道はそれほど大きな通りではなく車の行き来も少ない。約束の時間、午前十時はとうに過ぎていたが、マネージャーの仲田の見慣れた白い軽自動車が走ってくる気配はない。

 美穂はチェッと舌を鳴らした。昨夜夜更かししてしまい今日は少し寝坊気味だったため、シャワーだけ浴び、朝食も食べずに慌てて下りてきたのだ。こんなことなら食べてくればよかったなと後悔する。

 ハンドバッグから携帯電話を取り出す。昨日から入れっ放しにしていたため、メールをチェックしていなかった。ひょっとしたら何か連絡が入っているかもしれない。

 え?

 美穂の心がざわついた。意外な人物からメールが届いていたのだ。

 貴美さん……。

 そう、長岡貴美からだった。彼女からの連絡が途絶えて二ヶ月ほどが経過している。彼女が今更なぜ。

 少なくともその起点には心当たりがあった。この二ヶ月で変わったことといえば、美穂が橘川夢多とついに再会を果たしたことだ。そのことを誰かから、橘川本人からかもしれないが、聞いたに違いない。ただ、メールそのものの内容については想像がつかなかった。

 同時に美穂は自らの勘違いにも気づく。仲田がメールを寄越してくるのは常にビジネス用の携帯だ。今見ているのはプライベート用。しかし、今は仲田のことより貴美のほうが気になってしかたがない。

 受信時間は午前九時四十五分とある。その頃は確かシャワーを浴びていたはずだ。美穂は一度深呼吸をし、眼鏡のブリッジを持ち上げてから、貴美よりのメールを開いた。

 『ごめんね』とメールにはその一言だけが綴られていた。

 ゴクンとつばを飲み込む。額を伝う汗が冷え冷えとする。美穂は目をつむり、心を落ち着かせようとした。その時だった。

 目の前に仲田の軽自動車が停まった。



「十五分遅れるってメールしたじゃん」

 運転をしながら仲田は眼鏡の奥の目を細めた。それは直接ではなくフロントミラー越しの笑顔だ。後部座席に座る美穂は「はあ」と気の抜けた返事をした。「悪かったってば。『入り』までちょっと時間あるから、なんか食べる?」

 また「はあ」と答える。美穂は貴美のメールのことで頭がいっぱいだった。

 『ごめんね』というのは、もちろん美穂に橘川を紹介しなかったことに対してだろう。となると、美穂が恋破れたことも知っているわけだ。やはり、彼女は自分が恨まれていると思っている。

 美穂は胸を痛めた。貴美のことを恨んでなどいないのだ。むしろ、あんなに残酷な相談をしてしまって罪悪感さえ覚えている。

 そのことを伝えることにした。仲田の話に相槌を打ちながら文字を打ち込み、メールを送信する。『謝らなくてもいいんですよ。こちらこそ、貴美さんの気持ちをちっとも考えないで、あんな相談をしてしまってごめんなさい。私はもう立ち直りましたから大丈夫です。これからも大切な友達でいてくださいね』

 私はもう立ち直りました、か……。

 それは嘘だともいえなかった。あの日、長い長い迷路のような恋が破れた日、一晩泣きとおしたことでだいぶ楽になった。仕事もきちんとこなしてこれた。最近では橘川のことを思い出す回数も減ってきた。そう、だんだんと恋は思い出に変わりつつあったのだ。



 『はあ』という美穂の返事はイエスととられたらしい。仲田は大きめのファーストフード店のドライブスルーで、美穂の分だけ食料を購入した。

「まどかちゃん、破局だってね」

 残念そうに仲田は言った。「やっぱ騒ぎになっちゃったから、付き合いにくくなったのかな」

「そうかもしれませんね」

 もぐもぐとハンバーガーを頬張りながら、しみじみとした調子で美穂は返した。そのニュースは、昨夜インターネットのニューストピックスで知った。美穂ともそれなりに親しいアイドルの沢渡まどかが、歌手のストレイ渚と破局したというのだ。二人の交際は昨年末に写真週刊誌により報じられていた。

「美穂ちゃんもスキャンダルには気をつけないとね」

 仲田のその言葉に美穂は「相手がいませんから」と平然と答えた。彼女はカマをかけているのだ。大事な商品に悪い虫がついていないか。ここで動揺を見せるわけにはいかなかった。

 携帯の着信音が鳴った。フロントミラー越しの仲田の視線を気にしながら、再び携帯を開く。予想どおり、貴美からのメールの返信である。

 メールを開き、本文をひととおり読み終えた瞬間、目の奥が熱くなるのを感じた。

『あの時、先に別の友達から橘川さんのことが好きだって相談を受けてて、どうしても彼女を裏切るわけにはいかなかったんだ。結果的にその子の恋だけが叶ってしまって、ずっと美穂ちゃんに謝らなきゃって思ってた。本当にゴメンなさい』

 な、なにそれ……。

 呼吸が乱れ、頬を汗が伝う。美穂は今までずっと、橘川は前々から彼女がいたのだと思い込んでいた。しかし、実際は貴美に相談するより後のことだったのだ。その事実が胸を八方から締めつけていく。

「どうしたの?」

 仲田のカマかけに「はあ」と答える。きっと不審に思われるであろうが、気にしてはいられない。

 なんでなんでなんで? 私のこと大事な友達って言ってくれたじゃん。それなのに、私よりその友達を優先させたわけ? もしあの時、すぐに橘川さんを紹介してくれたら、私は……。

 違う、と美穂はその考えを胸の奥へと押しやった。貴美を責めるわけにはいかない。付き合いの短い友達より、付き合いの長い友達を優先させただけのこと。悪いのはおそらく自分自身なのだ。

 そうだ。あの時がすべてだったんだ。

 美穂は両手で顔を覆った。橘川と初めて出会ったあの日。彼の連絡先を聞き忘れた自分こそがすべての元凶なのだと言い聞かせる。

「どうしたの? 和葉ちゃん?」

 でも、なぜ連絡先を聞かなかったのだろうと考える。確か、橘川が何か用事があるから帰ると言い出したのだ。その用事は……。

 綾川、チロリ。

 綾川チロリの出演するテレビ番組があるから。そんなくだらない用事だった。そんなことで自分の初恋は絶たれてしまったのだ。

 ダメだダメだダメだ! 橘川さんもチロリさんも恨んじゃダメだ!

 しかし、彼女がいると言った時の橘川、そして彼氏に誕生日プレゼントを贈ると言った時のチロリの幸せそうな顔を思い出すと、どうしようもない憎しみが胸の内からこみ上げてくる。彼らだけが幸せになって、なぜ自分はこんなに辛い目に会わなくちゃならないんだ。

 ぶち壊したい……。

 彼らの幸せをぶち壊してやりたいと美穂は思った。そしてハッとする。その一つを実現することができる材料を持っているのだということに気がついた。

 気がついてしまったのだ。


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