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55 せせらぎ

「いいなー」

 大田早苗が口もとをほころばせながら言った。「私も握手会行きたいなー。またチロリちゃんに会いたいなー」

 手触りの良さそうなシルクのブラウスと、肩にかけたショルダーバッグがミスマッチで、どうしようもなく滑稽に見える。それが彼女の良さでもあった。

「合宿があるんだろ」

 橘川夢多が苦笑した。目を細めているのは笑っているということもそうだが、朝の陽光が眩しくもあった。「早苗の分まで俺が楽しんでやるから、安心して行ってきなよ」

 二人は夜勤明けだった。ただいま、並んで早苗宅へ向かっているところだ。午後から学校にちょっとした用事のある橘川は、学校近くの早苗の家にそれまでお邪魔させてもらうことにしたのだ。

 それと、もう一つ。長岡貴美が昨夜から早苗の家に泊まりこんでいるのだという。久々に彼女と会って話をしてみたかったし、向こうも橘川に会いたがっているそうだ。

「貴美ちゃんは彼氏とかいないのかな」

 橘川が独り言のように何気なく言った。早苗は「どうだろ」と首を傾げた。

「あの娘はよく分かんないからなー。聞いてみたいけど、貴美を前にするとあら不思議、そんな気もなくなっちゃうの。聞けないんじゃなくて、どうでもよくなっちゃうの」

「へえ」

 羽山美穂が『貴美は独特過ぎる』というようなことを言っていたのを思い出した。そして、それが貴美の良さであるということも橘川は理解していた。

 羽山美穂という名前に動揺を覚える。いや、動揺というほどのものでもないかもしれない。ちょっとした心のせせらぎか。早苗によると、貴美が橘川に会いたいと言い出したのは、先日橘川が美穂と二人で会ったという話をしてからだったという。もちろん、単に共通の友人の話をしたいと思っただけなのかもしれないが、貴美はそんな『タマ』であっただろうか。ひょっとしたら和葉と会うのはいけないことだったのかと橘川は心配していたのだ。しつこいようだが、せせらぎ程度のものではある。

 

 

 早苗の部屋は二階にあった。二つのみの向かい合った扉のうち片方のドアノブを握る早苗。橘川はもう何度かここを訪れていた。

「ただいま」

 早苗はそう挨拶しながら玄関のドアを開けた。貴美はすでに起きているらしく、鍵はかかっていなかったが、中から返事は聞こえてこない。二人が玄関を上がり、六畳の洋室に入ってから、ようやく隣り合うキッチンに立つ貴美が「おかえり」と返事をした。とぼしい声のボリュームを自覚していたのだろう。

「はい、橘川さん」

 まるで初顔を引き合わせるように自分の恋人を紹介する早苗。貴美は「お久しぶりです」と丁寧に頭を下げた。それに合わせ、橘川もお辞儀しながら「お久しぶりです」となぜか敬語で返してしまった。

 貴美は半袖のパジャマを着ていた。確かそれは早苗のものだったはずだが、まるで長年使い古したもののように似合っていた。髪型や、かもし出す雰囲気など、貴美の印象は以前会った時と全く変わっていない。おそらく、彼女は子供の頃から変わっていないんだろうなと橘川は勝手に想像した。

「ご飯にする? それともお風呂?」

 貴美が早苗に真顔で言った。それを真顔で言うという選択肢が彼女にはある。早苗は「じゃあ、お風呂!」と元気良く答え、一人でさっさと浴室へ入ってしまった。その選択もすごいと思う。

 1Kの小さな部屋だ。洋室にはベッドにテーブル、コンポ、テレビ、ソファなどが所狭しと置かれているが、綺麗に整頓されているため、そこまでゴチャゴチャとしては見えない。キッチンも物は多いがよく片付いている。

「なに作ってるの?」

 貴美がおたまを使ってかき混ぜている鍋の中を覗いてみた。どうやら味噌汁のようだ。「おお、美味そうだね」

「橘川さんも召し上がってください」

 顔を向けずに貴美は言った。「早苗が上がってからでもいいですか」と付け加える。「うん」と頷く橘川。

 それから貴美は出し抜けに洋室まで歩き、ソファに腰かけた。橘川は少々戸惑った。テーブルの上に文庫本が置いてあり、それに手を伸ばすのかなと予想したが、そういうわけでもなく、ただじっと前を向いていたからだ。

 何か話を始めなければならない雰囲気だ。貴美は黙っているのでこちらから。今彼女との間で交わされる話題は一つしかない。また心に小さなせせらぎが立つ。



「弟さん、松尾和葉ちゃんと同級生なんだってね」

 橘川は決心し、貴美のもとまで歩いてから言った。『松尾和葉ちゃん』と呼んだのはひょっとしたら貴美が和葉の本名を知らないかもしれないという思いからだ。

 彼女の隣も空いていたが、彼女と向かい合う形でベッドに腰かけることとする。

「ビックリしたよ。家もすぐ近くだって言うし、本当に世間は狭いもんだなって。俺も近くに住んでるんだよ」

 ややあって貴美は口を開いた。

「色々なことを話したんですね」

 橘川を見ず、テーブルの上に目を向けている。うつむいているというのが正しい。「一つだけ聞きたいんですけど」

 そこで彼女は顔を上げた。なんとなく重いトーンだったので、橘川は思わず身構えた。

「うん。なに?」

「橘川さんが早苗と付き合ってるってこと、美穂ちゃんは知ってるんですか?」

 ああ、やっぱり知ってたかと橘川は思った。無論、和葉の本名のことである。そんなことを考えてしまったため、肝心の質問の内容に何の違和感も抱かず、答えてしまった。

「もちろん、早苗のことなんて知らないだろうけど、一応、俺に彼女がいるって話はしたよ」

 そう言ってからようやく橘川は不思議に感じた。自分と早苗が付き合っているということを美穂が知っているかどうか。なぜそんなことを聞くんだ。しかも重いトーンで。

「そうですか」

 そう返した貴美の表情もやはり曇っていた。橘川はいったいどうゆうことなのかと尋ねようとしたが、すぐにその必要はなくなってしまった。

 ――直感してしまったのだ。貴美の顔色を窺っているうちに。自らの顔もみるみるうちに青ざめていくのを自覚する。

 先日の美穂や目の前にいる貴美の様子からだけでは、その答えに辿り着くことはできなかったはずだ。おそらく前例があったからであろう。そう、大田早苗という前例が。

 しかし、それは簡単に信じられる話ではない。相手はあの松尾和葉なのだ。こうゆう言い方もなんだが早苗とは別次元の存在だ。世間の男の誰もが憧れ、誰もがその途方もない距離に涙する、松尾和葉なんだぞ。

「美穂ちゃん」

 貴美はうつむいたまま搾り出すように言った。「橘川さんのことが好きなんです」

 橘川は何も答えなかった。その脳裏には橘川に彼女がいると知った時の、美穂の作り笑いのような奇妙な笑顔が浮かんでいた。


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