54 今回ばかりは
「着いたばーい」
母にトントンと肩を叩かれ綾香は目を覚ました。父の車の後部座席だ。高速道路からの退屈な景色に見飽きて、いつの間にか眠ってしまったようだ。車から這い出て「うーん」と背伸びをし、それから大きなあくびをした。
両親に続いてガレージを出ると、空は紫色に変わっていた。七時を少し過ぎたあたりだろうか。少々肌寒く感じたため、肩をすくめる。その様子を見て父が「そんな格好しとうけんたい」と吐き捨てた。
母が夕食の支度のため、さっそく台所へ向かう。すでにカレーは作り終えているらしく、あとは暖めるだけらしい。綾香は父と共に茶の間に入った。
八畳の和室空間だ。がらんとしており、テレビとテーブル以外には小さな茶だんすしかない。隣の客間とひと続きになっているが、間をふすまでさえぎられている。
しばらく無言でテレビを見て過ごす。なんとも気まずい時間だ。数分経つと台所からカレーの香りが漂い始めた。くんくんとその香りを楽しんでいた時、不意に父が語りかけてきた。
「いつまで続けるとね」
目を丸めて父の顔を見る。「なにが?」と尋ねると、声を荒げさせ「お前のアイドルとかいう仕事たい!」と返してきた。
「いつまでって言っても」
綾香は眉をひそめた。「そんなん分からんよ。おばあちゃんになってもまだやっとうかもしれんし」
「どこにおばあちゃんのアイドルがおんね」
父の正論に綾香は「まあ、確かに」と頷くばかりだった。「あんなん、もてはやされっとは若いうちだけばい。あと数年すりゃあ今日みたいな握手会なんか、誰も来てくれんくなるったい」
握手会の会場で一人ポツンとたたずむ自分を想像し、思わず身震いしてしまった。
「だ、大丈夫やもん」
綾香は精一杯強がってみせた。「私には歌もあるっちゃけん。アイドル歌手から本格派シンガーへ華麗に転向すればいいっちゃん」
父はふんと鼻を鳴らしたきり何も言い返してはこなかった。そんな時、エプロンをつけた母が「出きたばーい」と廊下から顔を覗かせた。
「あの下品な歌詞はなんね」
ダイニングに移ってから間もなく、父の小言は再開した。スプーンでカレーをすくいながら、ゴニョゴニョと独り言のように呟く。「職場の仲間からさんざんからかわれて、こちとら恥ばっかかいとうとばい」
「おいしーい」
カレーを口に入れ、綾香は目を細めた。「お母さんのカレーって本当においしいねえ。もう私が作ったのなんか食べれんばい」
「あんた、一口目からさっそく口の周り汚しとうやん」
苦笑して綾香の口もとを濡れ布巾で拭く母。「ちょっと、そんなもんで拭かんでよ」と綾香は抗議した。二人は父と向かい合い、並んで座っていた。綾香が幼い頃からの定位置だ。
「こないだのあれ、あの不良みたいなお笑い芸人が出とる番組たい」
話を途切れ途切れさせながら父は続ける。間にボリボリと福神漬けを噛む音も聞こえる。「お前、クイズに答えられんで泥まみれになっとったけど、あんな姿を全国に晒して恥ずかしくなかとか? クイズといえばあれもそうや……」
「今日ねー。夏美と希美と絵理香が来てくれたとよー」
席を立ち、冷蔵庫から牛乳を取り出しながら綾香は言った。「夏美なんて結婚して子供がおるっちゃけん。いきなり赤ちゃん抱いとってさー。ビックリしたー」
自分と母の前にコップを並べ、牛乳を注ぎ入れる。
「それなら、前のイベントん時みたいに友達と一緒に遊びたかったっちゃないと?」
やや心配そうな響きを持った声色で母は言う。綾香は「ううん」とかぶりを振った。
「今日はお母さんと一緒に過ごしたかったっちゃもん」
座って椅子をひく。「遊んどったら時間なくなるけんね」
「綾香、俺も」という父の割り込みに、綾香は「はいはい、お父さんとも一緒に過ごしたかったよ」とたしなめるように言った。
「違う!」
ドンとテーブルを叩く父。「俺も牛乳くれって言いよると」
「言いよらんやん……」
ぶつぶつ言いながらも、再び席を立ち父に牛乳を渡してから座り直す。そんな娘の横顔に母が何気ない調子で尋ねた。
「彼氏は元気?」
「うん。元気ばい」
綾香はニカッと笑顔で答えた。
……。
あれ?
「やっぱりおったっちゃね」
しかたがないなあといったふうに、母ははあと息を吐いた。彼女に何かを言うとする綾香だったが、口をパカパカと開閉させるのみでなかなか声が出てくれない。
「な、な、なんで知っとうとよ!」
ようやくそんな言葉を口にした。
「インターネットのサイトで噂されとったったい」
母の代わりに父が答える。ハッと彼に視線を移動させる綾香。「綾川チロリは男と同棲中らしいって」
「イ、インターネット……」
綾香のこまかみをあたりを汗が伝った。そんな噂など聞いたことがなかった。そういえば最近、あまりパソコンに手をつけなくなってしまっていた。
ネットで噂になっているとなると、両親うんぬんの問題ではない。世間に真一の存在がバレてしまっているということか。いったい、このピンチをどう脱すればばいいのか、まるで判断がつかない。
「まあ」
難しい顔をして黙り込んでしまった娘に母が言った。「そんなに気にせんでもいいばい。なんかそうゆう芸能人の噂ばっかを掲載しとるサイトやけんさ。あんた以外のアイドルの子もあることないこと色々噂されとうっちゃけん」
それを聞いて安心する綾香。そうか。写真週刊誌などとは訳が違うのだ。そんなネット裏ゴシップサイトの噂など、ほとんどの人間は本気にしないであろう。
「でも、お前の場合は実際におるっちゃろうもん」
本気にした一部の人間が言う。「親の金で上京しくさって。学校辞めて如何わしい仕事を始めたと思ったら今度は男と同棲か」
綾香は何も言えなかった。今はこれ以上父の機嫌を損ねてしまうわけにはいかない。
どんな罵倒を受けても耐えられるように心の準備をしてから、うつむいて父の次の言葉をじっと待っていた。しかし、その言葉は綾香にとってとても意外なものだった。
「さっさとそいつをうちに挨拶に来させんか」
「え?」
綾香は顔を上げた。「つ、連れてきてもいいと?」
「その噂を最初に聞いた時は、お父さんもおかんむりやったとばい」
今度は父の代わりに母が苦笑して答えた。「でも、私が必死に説得してあげたと。綾香ももう二十歳になったし、ちゃんと仕事もしとうっちゃけん、恋人ぐらいおってもよかやないねって」
両親の顔を交互に見る綾香。そして「うん、今度連れてくるけん」と高らかに宣言した。
なんたる幸運。父の説得という最も難航が予想される作業が省けてしまったのだ。本来なら忌み嫌うべきゴシップサイトに今回ばかりは感謝してしまう綾香であった。