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53 凱旋中

 一週間前、八月一日に行われた仙台での握手会は好評のうちに幕を閉じた。始めは本当に人が集まってくれるのか不安だったが、いざ蓋を開けてみると数百人のチロリンファンが会場となったビルに詰めかけてくれた。彼らからたくさんのプレゼントや励ましの言葉をもらい、おまけに『イッツ・パフォーマンス』のCDもかなり買ってもらった。

 というわけで、本日八月八日の『元』地元福岡での握手会も大盛況が予想され、綾香は開始前からわくわくと胸を躍らせていた。

 会場は大手外資系CDショップ『センチュリーレコード』福岡天神店。とあるデパートの五階フロアを丸々占めている。

「楽しみやねえ」

 雑然としたスタッフルームのパイプ椅子に腰かけ、近くで購入した手作りおにぎりをむしゃむしゃと食べる池田綾香。握手会開始の午後三時まであとわずかだが、まだ衣装には着替えておらず、キャミソールとジーンズという格好。といっても、衣装もたいして変わりはない。隣には煙草をふかす南吾郎の姿があった。「高校時代の同級生も何人か来てくれるっちゃんねー。わー、夏美元気かなー」

「夏美? どっかで聞いた名前だな」

 南は眉間にしわを寄せた。「ああ、お前に男を寝取られた女か」

「寝取ってない!」

 納得したようにうんうんと頷く南に綾香は逆水平チョップを食らわせた。ポキッという鈍い音が響く。「うぐっ」

「ところで、この後お前は佐世保に帰るんだったな」

 手首を押さえてうずくまる綾香の後頭部に南は尋ねた。その状態のまま必死に頷く綾香。「明日も夕方からは東京で仕事なんだから、遅刻すんなよ」

「わ、分かっとるよ」

 息絶え絶えにそう答え、彼女はなんとか顔を上げた。

 只今の会話どおり、握手会が終わったらそのまま佐世保へ向かい、実家に一泊する予定だった。そのことを意識すると、少しだけ緊張してしまう。なぜなら、その時両親に井本真一という恋人の存在を打ち明けようと考えていたからだ。次にいつ帰れるかも分からないし、アイドルとしてそれなりの名声を手にした今こそがチャンスだと思った。

 真一には了解を取ってあった。父が怒り狂って家まで訪ねてくるかもしれないという話をすると、若干眉をひそめていたが、それもしかたがないと彼は言ってくれた。そして、いつか直々に挨拶に行くとも。

「だいぶ集まってんな」

 スタッフルーム入り口の扉を少し開け、南が店内を覗いた。それから腕時計に視線を移す。「開始まで二十分か。感心するぜ。どっちにしろ整理券の番号順だってのによ」

 整理券は参加券を兼ねていた。本日の開店時から早い者勝ちで配布されており、綾香が店に到着した頃には計五百枚をすべて配り終えていた。仙台では若干余りがあったため、今回は仙台以上の盛況を見込むことができる。見込む、というのは整理券を持った五百人が全員来てくれるとは限らないからだ(おかしな話だが)。

「それだけ皆、はやる気持ちを抑えられんってことよ」

 おにぎりの最後の一口をパクっと頬張り、「さあ、着替えますか!」と綾香は立ち上がった。それからキョロキョロと辺りを見回す。「あれ? どこで着替えればいいと?」

「す、すみません」

 近くにいた店員の若い男性が申し訳なさそうに言った。「こちらでお願いします」

 彼が指差した先はどう見てもトイレだった。



 うう、パフォーマンス。パフォーマンス。

 握手を繰り返しながら、綾香は心の中で何度もそう呟いていた。握手会がスタートし、チロリンファンたちが列を作ってから一時間ほどが経過した。百人目を超えたあたりからだろうか。どうも握手する右手がズキズキと痛み始めている。仙台でも同様のことが起こったが、それはもっと終盤になってからだった。間違いなく、先ほどの南へのチョップがたたっている。

「アルバム絶対買います! 福岡でもライブやってくださいね!」

 頭にバンダナを巻いた太った青年。彼の着るティーシャツには『チロリンLOVE』と恥ずかしげもなく書かれていた。そんなグッズはなかったはずなので、おそらく特注である。こういった見るからにアイドルオタクな男性をどちらかというと見下してしまう綾香だが、自分のファンとなると話は別、差し出された手を両手で快く握り締めた。

「ありがとうございますう」

 綾香が笑顔でお辞儀をすると、彼は綾香の手をギュッと握り返してきた。思わず叫び出してしまいそうになったがグッとこらえる。

 パフォーマンス、パフォーマンス。

 また呟きながら、目の前を伸びる行列を眺める。あと何人ぐらいだろうかと気になったが、列の終わりはまったく見えない。溜息を吐きそうになったが、やはりこらえる。

 皆、私の笑顔に会いに来たっちゃけんね。くよくよしてられんばい。

 ただ次の瞬間、溜息を吐く代わりに綾香は「ブッ」と吹き出してしまった。行列の中に平然と並ぶ父の姿を見つけたからだった。

 五分ほど経過し、父の番となった。白いポロシャツとジーンズという出で立ちだった。

「なんちゅう格好しとうとね」

 握手をしながら父は言う。「人前でそんなはしたない格好して。この馬鹿娘が」

 本日の衣装はノースリーブのシャツとホットパンツであった。もちろん、ハットもかぶっている。

「いっつもこんな格好しとうやんか」

 綾香は唇を尖らせた。なんとなく周りのファンに父の来訪を知られたくなかったため、小声で話す。まあ、その様子の変化から察する者もいるであろうが。「なんで普通に握手会に参加しとうとよ。お母さんもおると?」

「お前が帰ってくるって言うけん、迎えに来てやったついでたい」

 父は頬を赤らめた。迎えのほうがついでなのだろう。そもそも、整理券を入手できないではないか。「母さんも来とるけど、ここにはおらん。天神で買い出しするんやと」

「なーんだ」

 大好きな母との再会はまだおあずけのようだ。

「それにしてもこないだのテレビでのあれはなんか!」

 突然、父の目に怒りが宿った。「あんなことペラペラペラペラくっちゃべりよって!」

 長い説教が始まってしまいかけたところで、係員が「時間でーす」と父を目の前から押し出した。キョトンとする父。「ナイスアシスト」と綾香はこっそり囁いた。

 


 握手会終了後、会場を一人でスルッと抜け出した綾香は、別のデパートの休憩スペースで両親と落ち合った。父はサングラスを見てまた硬いことを言い、母は右手の包帯を見て心配の言葉をかけてくれた。

「お母さーん」

 甘えた声で母にすがりつく綾香。「今日のご飯カレーにしようよ。カレー」

「始めからその予定やって。あんた、カレー好きやけんね」

 ニコリと笑う母。父と同じような服装だが、頭には福岡ポークスの黒い野球帽をかぶっていた。彼女はあたりにチラチラと目を配った。「あんた、サングラスかけとうだけでまったく気づかれんっちゃね」

「私のオーラの無さはギネス級ばい」

 綾香はえっへんと胸を張った。そんな娘を置いてけぼりにして両親は歩き出す。「待ってよー」と彼らの後を追う綾香。

 彼らの背中を見つめながら考えていた。さて、真一のことはいつ切り出そうかなと。


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