52 夏の真ん中で
まるでスイッチが切り替わったようだった。橘川に彼女がいるという事実を知った瞬間、美穂は一瞬のうちに松尾和葉に変身した。もし、そうしなかったら感情が暴れだしてしまいそうだった。人目もはばからず、大声で泣き喚いてしまいそうだった。ただ、それが悪いことなのかどうかは判断がつかなかった。
それから先の会話は覚えていない。気がつけば一人、公園のベンチにぼうっと座っていた。そこがどこだかすぐには思い出せなかったが、しばらく風景を眺めていると、自宅のマンションのすぐ裏にある小さな公園だということに気がついた。公園内には他に、犬を連れた中年女性の姿しかなかった。ベンチは木陰になっており、涼しくもあり、冷たくもあった。
馬鹿だよなあ、私。
橘川との華々しい未来を想像してはしゃいでいた昨日までの自分を思い起こし、美穂は自虐的に微笑んだ。
橘川には恋人などいないと思い込んでいた。いや、必死に思い込ませていた。そうしないと、いつまで経っても恋に踏み出す勇気など湧いてこないと思った。しかし、今ではそれも間違いだったような気がしてきた。
恋に破れることがこんなに辛いことだとは思わなかった。始めから恋なんてしなければ良かった。それなら、こんなに傷つかなくて済んだのに。
美穂の頬を涙が伝った。そのことを自覚し、すぐさまハンカチで目もとを拭う。それからすべての念を振り払うかのように両手で頬を軽くパンパンと叩く。
後悔なんてしちゃダメだ。橘川さんに恋をしている間、あんなに楽しかったじゃないか。私はきっと良い恋をした。だから後悔なんてしない。
美穂は必死にパフォーマンスを続けた。自分さえもをごまかす必要があったからだ。
不意に長岡貴美のことが頭を過ぎった。橘川の名前を聞いた時の彼女の様子を思い出す。
彼女には悪いことをしたなと美穂は思う。彼女は橘川に恋人がいることを知っていたのだ。美穂の恋は叶わぬ恋だと知っていたが、だからといってあきらめろとも言えない。結果的にすべてを有耶無耶にしてしまうしかなかった。
すごく悩んだだろうな。貴美さん。
美穂は思い立ってポケットから携帯電話を取り出した。貴美に今日のことを報告しておこうと思ったのだ。
『フられちゃいました』
この一言で貴美はどこまで読み取るだろう。別のルートで橘川に辿り着いたこと。橘川に彼女がいるということを知ったこと。貴美の嘘に気がついたこと。それでも、貴美を恨んではいないということ。
そこまで考えて美穂は携帯を閉じた。やはり、貴美に報告するのはよしておこう。当然向こうは自分に恨まれていると思うだろうから、ひょっとしたら皮肉に聞こえてしまうかもしれない。
その代わりといってはなんだが河内那美に報告することにした。そもそも、一番に報告しなければならないのは彼女ではないか。
《もしもし》
コールしてから一、二秒ほどで那美と繋がった。おそらく、彼女も待っていたのだろう。
「行ってきたよ」
美穂はまずそう告げた。「すごく楽しかった。秀英大学のこととかお互いのこととか、色んな話をした」
《そう、良かったね》
素っ気ない言い方である。美穂の報告に肝心な部分が抜けていたからであろう。《それで? どんな感じ? その様子じゃ、まだ気持ちを伝えてはいないみたいだね》
「うん」
少しだけ間を置く。「もういいんだ。橘川さん、彼女いるんだって」
《え!?》
那美は絶句した。しばらくした後で、彼女は《そう……》とだけ答えた。
「でも、まあスッキリしたよ」
美穂は笑った。「途中であきらめたりしないで本当に良かった。おかげでキチンとした答えも出たしさ。また新しい恋に踏み出せると思うよ。色々と手伝ってくれてありがとう。感謝してるよ」
《ねえ、美穂》
その声にはたしなめるような響きがあった。《私には強がらなくてもいいんだよ》
「え?」
美穂はギクリとした。「べ、別に強がってないってば。そりゃあ、少しは落ち込んでるけど……。でも、面と向かって嫌いって言われたわけじゃないし。ただ、橘川さんに彼女がいたってだけのことだし」
《不完全燃焼じゃない?》
言葉を失くしてしまう美穂。那美の言うとおりだと思った。自分はまだ何も吐き出していない。好きだという気持ちも結局伝えていない。戦う前から勝負に負けてしまった。《いや……》
慌てた様子の那美。《美穂を落ち込ませようとしてるわけじゃないんだよ。元気ならそれが一番良いし。でも、なんとなく無理してるように見えたから》
「ううん」
努めて笑顔を作る。「無理なんかしてないよ。私は大丈夫。明日から仕事が詰まってるし、これぐらい吹っ切らなきゃ」
那美との通話を終え、そのまま自宅へ帰った。シャワーを浴び、汗を洗い流してから部屋着を着て自分の部屋に入る。今日はもうどこへも行く気になれなかった。
ベッドに仰向けになり、橘川夢多という男について考えてみる。これを最後にするつもりでだ。
別段なんでもない男である。特に何かが優れているわけでもない。特に何かが劣っているわけでもない。おまけに自分との関わりはいたって浅い。それなのに一度話をしただけで恋に落ちてしまった自分の心が最も奇妙に思えた。
そうだ。私はきっと恋をしたかったんだな。
そこへ辿り着くと同時に美穂は携帯電話を開いた。
橘川でなくとも良かったのだ。自分でも気がつかないうちに恋に憧れていて、目の前に適当な男が現れたのだ。つまり、恋に恋をしていたということか。それなら、自分が今、さほど辛い気持ちになっていないことも理解できる。
辛い気持ちになっていない……?
なんだか本当のことのような気がした。言い聞かせすぎて感覚がマヒしているのか、シャワーを浴びて頭がスッキリしているからか、とにかくこの調子なら橘川のことも綺麗サッパリ忘れられるかもしれない。
さあ、綺麗サッパリ忘れよう。忘れてしまえば怖いものはなしだ。彼に恋は素敵なものだと教わったのだから、すぐにまた新しい恋が見つかるはずだ。
携帯のメモリーから橘川の名前を呼び出す。そしてそれを削除しようとした。だがいつまで経ってもメモリーを削除した時のピロリーンというふぬけたサウンドは響かなかった。
あ、あれ?
携帯の画面になぜかモザイクがかかってしまったのだ。その正体が目に溢れる涙だと知った瞬間、美穂はついに切れた。
「うぐ……、き、橘川さん……。橘川さん」
携帯を握りしめながら美穂は泣いた。震える手を口もとに当て、嗚咽の声を必死にかき消しながら。涙が枯れる気配は全くなかった。その日、いつまでもいつまでも羽山美穂は泣き続けた。