51 変身
着ているキャミソールに合わないという感想は一応受けとめられたか、結局野球帽は橘川の頭に帰ってきた。はっきりいってホッとした。どうも帽子をかぶっていないと落ち着かない性分なのだ。今まで美穂の前で帽子を脱いだことはなかったため、ひょっとしたら彼女はそのことを察してくれたのかもしれない。
美穂に連れられるがまま近くの喫茶店に入り、二人がけのテーブルに向かい合ってからも、やはり橘川は帽子を脱がなかった。
店内に客は少なかった。大通りを折れた先の小さな路地に面した入り口はどう考えても目立っているとは言い難かったし、窓もなければ扉も不透明な木製のものという客を選びそうな閉鎖的な雰囲気もその一因ではないだろうか。美穂は敢えて客の少なそうな店を選んだのだろう。
美穂が紅茶とショートケーキを注文する。橘川はコーヒーを注文した。
「暑かったですね」
ズボンのポケットからレモン色のハンカチを取り出し、額の汗を拭う美穂。「なんか、今年は去年以上に暑くなりそう」
「そうだね」
橘川も汗をかいていたが、放置することにした。クーラーがじきに乾かしてくれるだろう。「よく見たら、美穂ちゃんもけっこう日焼けしてるね」
大胆に露出した美穂の首まわりを眺める。よく見たらとは言ったものの、書店で彼女を見つけて以来、彼女の小麦色の肌がずっと眩しかった。
「そんなに見つめないでください」
冗談めかした笑みを浮かべながら、胸の前で腕を交差させる美穂。おっと、と橘川は視線を逸らした。「夏前に日焼けサロンへ行ったんです。夏は黒くて冬は白いっていうのが私の持ち味なんですよ」
アイドルとしてのという意味だろう。
「そ、そうなんだ」
ハハと笑いながら橘川は頭の中で三人の少女を照らし合わせていた。
昨年初めて出会った時のクールな少女。世間がよく知るドジでおっちょこちょいな少女。今日はその中間といった感じか。昨年よりは明るいが、テレビよりは落ち着いている。思えば、こないだ電話をかけてきた時の彼女もそうだった。
いったい、どれが本当の羽山美穂なんだろうなと彼は思った。
「その大講堂ってのがすごいんだよ」
前のめりになって秀大の魅力について力説する橘川。「日本最大規模の学内ホールでさ。なんと三千人近くも収容できちゃうの」
「すごーい、本当ですかー?」
美穂は瞳を輝かせた、ように見えた。「うわー。入学できたらいいなー」
独り言のようにそう呟いてから、ハムッとケーキを口に入れる。次に紅茶を啜って喉を潤し、「ところで橘川さんはもう就職決まったんですか?」と尋ねる。自分が四年生だということは先ほど告げたばかりだ。
「ううん、内定はまだなんだ」
かぶりを振りながら、妙だなと橘川は思う。彼女は電話で秀大のことを聞きたいと言っていたはずだ。しかし、彼女のお望みどおりに橘川が秀大の話をし始めても、今みたいにすぐ別の話題へ移行させられてしまう。そしてその話題は主に橘川のことについてだ。なんだか、秀大よりも自分に興味があるといったふうに見える。
橘川は自嘲気味に笑った。
そんなわけないか。相手は天下の松尾和葉だぞ。
秀大の話ばかりさせては失礼だと彼女が気を遣ってくれているのかもしれない。それならこちらも美穂について色々と尋ねてみようか。
「美穂ちゃんはなんでアイドルになろうって思ったの?」
突然自分のことを尋ねられ驚いたのか、美穂は「え?」と口を小さく開けた。
「なんでかな」
視線を中に漂わせ、「うーん」と唸りながら考え込む。「スカウトされた時はただ楽しそうだなって思いました」
「へー」と橘川は相槌を打つ。美穂は続ける。「実際やってみると、楽しいってだけでは済まない仕事だっていうことが分かったんですけど、でも、すごくやりがいのある仕事だなと思いました」
そうだろうなと橘川は頷く。彼は歌番組でステージを駆け回りながら『イッツ・パフォーマンス』を熱唱する綾川チロリを連想した。
「美穂ちゃんをスカウトした人ってすごく見る目があると思う」
橘川のその言葉に、美穂はまた「え?」と目を丸めた。橘川は少々抵抗を感じながらも続けた。「いや、だって、めちゃめちゃ輝いて見えるもん。ルックスがどうとかじゃなくてさ。本当に美穂ちゃんはアイドルが天職なんだなって気がする」
何気なく口をついて出た言葉ではあったものの嘘ではなかった。前回はそれほど意識しなかったが、今日久しぶりに顔を合わせてみて彼女が本当に魅力的な娘なんだと痛感させられた。眼鏡の向こうの黒目がちの瞳や、薄く紅潮した頬、小さめの鼻と口。目線を下にずらしても、日に焼けた瑞々しい肌、おどけない顔立ちと似つかわしくない大きな胸の膨らみ。彼女を形成するすべてのパーツが一級品に思えた。レストランなら五つ星。サッカー選手ならバロンドールか。前回とは違い、彼女がテレビの中の松尾和葉に近い格好をしているからかもしれない。
「私がアイドルだって先入観があるんじゃないですか」
美穂が頬を緩めながら言った。「そうかも」と橘川は返したが、それだけではないという確信もある。「でも、嬉しいです。ありがとうございます」
美穂は満面の笑みを見せた。なんとなく、彼女こそが本物の羽山美穂なんだろうなと思った。
コーヒーを飲み終え、橘川は頬づえをつきながら考えていた。
それにしても、何の因果で自分はこの娘と知り合ったのだろう。自分には大田早苗という恋人もいるし、綾川チロリという大好きなアイドルもいる。自分が彼女と知り合いになっても意味がないではないか。世の中には彼女のことを好きな男がごまんといるのに。そう、藤岡茂などもそうだ。なんだか、とても不公平な気がする。
「美穂ちゃんは彼氏は?」
思わず口にして橘川はハッとした。アイドルになんてことを訊いているのだろう。しかし、その質問の受け答えには慣れているのか、美穂は平然と「いません」と首を振った。
「ファン向けの回答じゃありませんよ」
美穂はフフと上品に笑った。「男の子とは縁がなくて、本当にいないんです」
「そうなんだ」
本当か嘘かは判断しかねたが、特に興味がなかったので追求しない。
「橘川さんは」
美穂はそこまで言って少しだけ間を開けた。「彼女はいらっしゃるんですか?」
「ああ」
当然そうくるよなと橘川は思う。これぞ自然な流れだ。照れはあったものの正直に答えることとする。「うん。こう見えても一応いるんだ」
「そ……」
一瞬、美穂が言葉を詰まらせたように感じられたが。「そうなんですか。いいなー、羨ましいなー」
すぐにニコッと笑みを浮かべ、しみじみと言った。しかし、橘川の心は大きく揺らいだ。
なぜだろう。彼女のその笑顔はテレビの中の松尾和葉の笑顔にしか見えなかった。