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50 あなたの前では

 羽山美穂はずらりと並ぶ参考書の背表紙を眺めていた。しかし、数秒後にその時見た本のタイトルを挙げろと言われれば、きっと一冊すらも挙げることはできないだろう。なぜなら、彼女の意識は参考書などではなく、先ほどからずっと周囲の客に注がれているからである。

 例の駅前の書店に彼女はいた。先日の電話にて、待ち合わせの時間も場所もこちらが決めていいと橘川夢多が言ってくれたため、美穂は夏休みに入って最初の休日である本日の午後二時という時間と、橘川と初めて出会ったこの書店の参考書コーナーという場所を指定した。

 参考書を眺めるのには二つの理由がある。一つは自分が秀英大学入学を目指す受験生であるという設定を裏付けるため。もう一つは橘川を心待ちにしている自分を隠すため。いずれも橘川がやってきた時のことをを想定している。

 美穂は精一杯のおめかしをしていた。プライベートでは滅多にしない化粧をし、服装もテレビで松尾和葉が着るような露出の多いキャミソールだ。本当なら髪をアップにして後ろで束ね、眼鏡もはずしてしまいたいが、それはさすがにまずい。どこからどう見ても松尾和葉になってしまう。

 有線が綾川チロリの『イッツ・パフォーマンス』を流し始め、思わず意識をそちらへ傾けた。恩返しというわけではないが、一応美穂もCDは購入していた。

 美穂はこの曲を気に入っていた。歌詞を聴いているとなんだか自分のことを歌われているような錯覚を覚える。テレビの中ではアイドルの自分を演じるが、好きな人の前では素の自分に戻ってしまう。まさしく自分のことではないかと思った。

 いや、とあえて否定する。この曲のように好きな人の前で素のままの自分でいられるか、松尾和葉ではなく羽山美穂のままでいられるかはまだ分からない。これからその答えがはっきりとするのだ。

 『橘川さんの前ではプライベートの、素のままの和葉ちゃんでいていいんだからね』

 いつかの菊田つばきの言葉が脳裏を過ぎった。つばきやチロリが背中を押してくれている。昨夜、電話で河内那美も励ましてくれた。

 私、頑張るから。橘川さんに気持ちを伝えるんだ。

 心の中で彼女たちに力強く宣言し、美穂はひたすら橘川を待った。約束の二時まであと五分に迫っていた。



 目の端でこちらへ走り寄ってくる男の姿をとらえた時、平静を装おうとしながらも激しい動悸を抑えつけることはできなかった。男がこちらへ近づく足音とその動悸の高まりが比例する。身体中を駆け抜ける熱と闘いながら、永遠のような時間を美穂は必死に耐えた。

 背後で足音が止まる。やや躊躇したのか、しばしの間を置いた後で「美穂ちゃん?」と彼に呼びかけられた。

 美穂は振り向いた。そして目の前に立つ橘川夢多の姿を確認した瞬間、胸の奥で大きな衝撃音が響いた。それはあっという間に足の先まで伝わり、思わずひざを震わせてしまいそうになった。

 橘川さん、本当に橘川さんだ。

 一年近い月日の中で、彼の顔を忘れかけていたことを初めて自覚した。そして今、はっきりと思い出した。そうだ。こんな顔をしていた。

 あの時と同じグリーンの野球帽をかぶり、その下は貧相ながらそれでいて優しそうな笑顔。前回は無精ひげを生やしていたが、今回は綺麗に剃っている。

「お、お久しぶりです」

 心配したが、なんとか声は出てくれた。「今日はわざわざすみません」

「いや、全然」

 橘川は首を振った。「ごめんね。待たせちゃったかな」

「いえ、今来たところです」

 美穂は意識的に笑顔を作った。しかし、その笑顔がぎこちなくなってしまったことをすぐに自覚する。その時『イッツ・パフォーマンス』のワンフレーズが思い浮かんだ。

 『あなたの前では私に戻っちゃう』。



 美穂の顔を見つめながら「なんか、今日ヤバくない?」と眉をひそめて橘川は尋ねた。「え?」と目をパチパチさせる美穂。

「いや、なんか前に比べてテレビのままっていうか」

 言い訳するような口調で橘川は説明する。「大丈夫かな。俺と二人で会っちゃって」

 なんだそんなことかと美穂は安心した。実は『ヤバくない?』と聞かれた瞬間、化粧が濃すぎてヤバいという意味だと取り違えた。橘川はなんとなく薄化粧の女性を好みそうなので、いきなり嫌われてしまったのではないかと不安になったのだ。考えてみれば分かりそうなものである。橘川は女性に面と向かってそんなことを言う男ではないだろうし、そもそも別に化粧は濃くない。

「大丈夫ですよ」

 そう言いながら辺りにチラチラと目を配ると、橘川も同様の仕草を見せた。「堂々としてればスキャンダルになんてなりません。私と橘川さんは別にやましい関係ではありませんから」

「そうだね」

 自分に言い聞かせるように橘川は頷いた。美穂はまた不安になる。なんだか彼自身もスキャンダルになったら困るといった様子に見えたのだ。

 私と噂になったら困るの? 私のことが嫌い?

 グッと目をつむり、ダメだダメだとその考えを撤去した。相手のことが嫌いでなくとも、アイドルのスキャンダルの相手にされるのは誰だって困るだろう。

 ひょっとしたら今日はまともな会話を一つもできないんじゃないだろうかと想像し、美穂は苦笑した。



 書店でしばらく立ち話をし、美穂はなんとか落ち着きを取り戻していった。それは羽山美穂からだんだんと松尾和葉へ変わっていくことを意味するが、とりあえず今はそれでいいだろう。後々、また美穂に戻らなければならない。羽山美穂の気持ちをすべて彼に伝えなければならないのだ。

 橘川の薦める参考書を一冊購入し、二人は並んで店を出た。容赦ない陽光が頭上から降り注ぎ、美穂は額に手をかざした。

「かぶる?」

 橘川が唐突に言った。「え?」と彼を振り向くと、彼は頭に人差し指を突き立てていた。つまり、自分がかぶっている野球帽を貸そうかという意味らしい。「これなら、顔も隠れて一石二鳥じゃない?」

 そんなことしたら橘川さんが眩しくなっちゃうじゃん。

 美穂は橘川の優しさをしみじみと感じた。そして「かぶります」とその優しさに甘えることにした。

 野球帽を受け取りながら、そろそろと橘川の顔を見つめる。帽子をかぶっていない彼を見るのは初めてだ。髪型はいたって普通の短髪で、とても誠実そうに見えた。いや、もはや彼を嫌う材料などどこにもないのだ。たとえあったとしても、美穂自身がそれをどこかに隠してしまうに違いなかった。痴漢の前科があっても許してしまうかもしれない。

「似合いますか?」

 帽子をかぶり、美穂は尋ねた。両腕を背中にしまい足を交差させる。橘川は「ハハ」と苦笑した。

「和葉ちゃんはなんでも似合いそうだけど、そのキャミソールと野球帽はちょっと合わな……」

「美穂です」

 橘川の言葉をさえぎり、美穂ははっきりと言った。「え?」と顔をキョトンとさせる橘川。「和葉じゃなくて、美穂って呼んでください」

「あ、ああ」

 橘川はしまったという表情を見せた。それからそわそわと周囲を見回す。「ごめんごめん。芸名のほうで呼んだらまずいよね」

 「はい」と美穂は笑顔で頷いた。

 芸名で呼んだらまずい。もちろん、彼女にとってそんなことはどうでもよかった。

 

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