49 寄り道
ゲスト出演した歌番組、それから自身がパーソナリティを務めるラジオ番組『綾川チロリのハートフルナイト』の収録を終えた頃には、もう時刻は午後八時を回っていた。
夕食を済ませていないため、空腹で眩暈を起こしてしまいそうだった。吉祥寺駅井の頭公園口近くで南の車を降りた綾香は、無意識のうちに駅前の牛丼チェーン店の暖簾をくぐっていた。
真一が帰郷して以来、夕食はもっぱら外食である。彼と同棲し始めてもう長いため、誰もいない部屋で寂しく食事をするのは些かの抵抗がある。
もちろん、本日も変装は完璧だ。最近はテレビに出演する際必ずハットをかぶっているため、プライベートでは逆にかぶらない。夜のサングラスは目立ちすぎるのでフレームの厚いだて眼鏡をかけている。
店内はそれなりに空いていた。壁のアナログ時計は九時前を差している。もうピークを過ぎているのだろう。店員たちもなんとなく、ひと仕事を終えた後のような雰囲気だ。
厨房を取り囲むカウンター席の一角に座り、カレーの大盛りと味噌汁を注文する。綾香はこの店のカレーが気に入っており、上京したての頃から真一や詩織とよく食べに来ていた。
調理を待つ間、水の入ったコップに口をつけながらぼんやりと店内を見回した。カウンター席には五人、隅のテーブル席には二人の客が座っている。いずれも男性だ。綾香はようやく自分が浮いた存在であることに気がついた。
急にそわそわとし始める。
お腹が空きすぎて気づかんやった。
この店を一人で訪れるのは今日が初めてだった。今までは誰かと一緒だったため意識しなかったが、一人だと他の客の目が気になってしかたがない。女性が牛丼屋に入るのは勇気がいるといった話をよく聞くが、自分には無縁のことだと思っていた。
やがて店員からカウンター越しにカレーと味噌汁を受け取り、目にもとまらぬスピードでそれを平らげる。味を楽しむ余裕などなかった。それは一刻も早く店を出たいがためであったが、綾香の男らしい食べっぷりはより男性客の興味を引き立ててしまい、実際に店を後にする頃には多数の視線が綾香を突き刺していた。
「もう、早よ帰ってきてよね」
「ありがとうございましたー」という店員の声を背中に受けながら、綾香は小さな声で愚痴をこぼした。
綾香が傷心のうちに帰宅した時、玄関の鍵は閉まっていた。スキャンダル対策のため、わざと鍵を閉め、灯りを消していることがあるため、まだ薄らと期待に胸を寄せていた。
「真一?」
真っ暗なリビングをキョロキョロと見回しながら呼びかける。やはり返事はない。綾香は溜息を吐き、ようやく真一がまだ帰っていないということを認めた。
リビングの灯りを点ける。だて眼鏡をはずし、テーブルの上に置く。洗面所へ向かい、その勢いで汗ばんだティーシャツとジーンズ、下着までもを洗濯機に脱ぎ捨てる。
シャワーを浴び終え、ランニングシャツとパンティのみというファンには見せられない姿で浴室を出た時、時刻はまだ十時前であった。明日の仕事は昼過ぎから。まだ眠るには早すぎる。
無音状態を寂しく感じ、テレビの電源を入れる。すると、自身も出演したことがある『カビリオン・ザ・パーティ』が放送されていた。ゲストのうちの一人が松尾和葉であることに気がつき、綾香は「おっ?」と呟いた。いつものように、胸もとが広く開いたシャツを着ている。日に焼けやすいのか、前に見た時より肌が色黒く感じる。冬よりも色っぽく見え、彼女は夏が本領なのかなと思った。
そういえば和葉ちゃん。ちゃんと電話できたとかいな。
和葉に橘川夢多の携帯番号を教えた時、彼女から『ありがとうございました。このご恩は一生忘れません』という返信があった。それに対し綾香は『来月新曲が出るけん、買ってね。なんちゃって』と冗談めかした宣伝を行ったが、彼女は買ってくれただろうか。
屈託のない表情で笑うテレビの中の和葉。カビリオンズ野田誠に男の影を指摘され、必死にごまかしている。『イッツ・パフォーマンス』の歌詞の一節、『テレビの中では私はアイドルだもの』という言葉が思い浮かんだ。
がんばりーね。和葉ちゃん。
綾香は心の中で和葉にエールを送った。
十時になり『カビリオン・ザ・パーティ』の放送が終了したのを機に、綾香は早くもテレビの電源を消した。身体のあちらこちらに疲労がたまっており、そういえば先ほどからあくびも連発している。今日のところはもう眠ってしまおうと思った。
リビングの灯りも消し、寝室の布団の上へ仰向けになった。隣には無人の真一の布団。そちらに向かって「おやすみ」と呟きながら綾香はそっと目を閉じた。
その時だ。足の下でガラッと不自然な音が聞こえた。ハッと目を開き、むくりと上半身を起こす。綾香は我が目を疑った。先ほどは確かに閉じていたはずの押入れが開いており、中から何者かがはいずり出ようとしているではないか。
終わったと綾香は思った。自分が留守にしている間に何者かが部屋に侵入していたのだ。これから自らに降りかかる災難を想像したが、意外にも心は冷静であった。おそらく恐怖よりも諦めが打ち勝ってしまったのだ。
「よお、遅かったな」
やがて、立ち上がった侵入者が綾香に気安く声をかける。その聞き覚えのある声と見覚えのある金髪が、ある男と一致した瞬間、綾香は再びパタッと寝転んだ。
男の手によって寝室の灯りが点される。
「今、何時だ?」
ボリボリと頭をかきながら真一は言った。眠っていたのか、その顔は随分と寝ぼけて見える。電灯の眩しさに目を細めながら「十時」と素っ気なく答える綾香。「うわー、三時間も経ってやがる。お前が遅すぎるせいで寝ちまったじゃねえか」
「帰ってくるんなら連絡すりゃいいやんか」
綾香はうんざりとしたようにまた身体を起こした。「それなら寄り道せんで帰ってきたとに」
それでも九時にはなっていただろうが。
「だから、驚かせようとしたんだってば」
自分の布団の上に腰を下ろす真一。「ったく、ノリが悪い女だぜ」
理不尽な叱咤を受け、キッと真一を睨みつける。それからふうと溜息を吐き、「お父さん、大丈夫やったと?」と尋ねた。
「大丈夫も何も、俺が帰ったその翌日にはもう退院しやがってさ」
真一は苦笑した。「『もうお前の手を借りる必要はないから帰れ』だとよ。でも、なんとなくいてほしそうだったから、しばらく滞在してやったんだ」
「もう、心配したっちゃけんね」
唇を尖らせ綾香はまたもや横になった。今度は真一に背中を向けている。
「なんだよー」
綾香の耳元で真一は甘えたような声を発した。「親父の容態はたいしたことないって電話で言っただろー? せっかく帰ってきたんだから、もうちょっとかまえよー」
「知らんもん」
そう言いながらも綾香はすっきりとした気分になっていた。真一が戻ってきて、ようやくここ数日彼女を苦しめていた不安から解放されたような気がした。
心配したっちゃけんね。
心の中でもう一度呟いた。