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48 ハイアンドロウ

「とりあえず、来月末のコンサートまでにアルバムも数曲レコーディングしておくから、お前も暇があったら詞を書きためとけ」

 運転席の南吾郎が前を向いたまま言った。冷房はまだ効き始めたばかりである。額やこめかめに汗を滲ませながらも、相変わらず黒スーツを脱ごうとはしない。「今回は曲よりもお前の歌詞が先にできあがることになる。メロディをつけやすい歌詞を書けよ」

 『イッツ・パフォーマンス』の綾香による詞は高く評価された。秋にリリース予定のファーストアルバム収録曲を全曲綾香に作詞させようというのは所属レコード会社の意向であった。

「はーい」

 窓の外を眺めながら池田綾香は答えた。渋滞に引っかかっているため、先ほどからあまり景色は動いていない。天まで続くような高層ビルや、歩道を歩く慌しい人々の向こうに、彼女は真一を見つめていた。

 故郷の父が倒れたというニュースを受けて、井本真一が帰郷してから一週間が経過しようとしている。彼が言うには、父の容態はそれほど悪いわけでもなく、もうあと二、三日でこちらへ戻ってこれるという話だが、綾香の胸の中では、もっと先の未来への不安が目先のその安堵を打ち負かしていた。

 もし父が回復しなかったらどうなるのだろう。いや、今回は回復するであろうが、いずれは必ずその時がくる。綾香の佐世保の両親だって同じだ。もし、彼らのどちらかが倒れたら自分は芸能活動など続けてはいけなくなるのではないか。

 お母さん。

 ふと大好きな母のことを考える。彼女は元気でやっているだろうか。もし病気か何かになっていても、自分を心配させないために連絡を寄こそうとはしないのではないか。

 母が倒れたら、物理的にも精神的にも芸能活動なんてやってられないなと綾香は思った。それはもちろん、真一だって同じであろう、とも。

「聞いてんのか?」

「へ?」

 窓から南の顔へと視線を移動させる。すると、二人の乗る車がいつの間にか渋滞を抜け出し、すいすいと道路を進んでいるということに気がついた。外を眺めていたくせに今まで気がつかなかったのだ。

「ここ最近、お前ずっとそんなだな」

 窓を閉めきっていながら煙草を吸う南。その息苦しさにもようやく気がついた。「一日中ぼうっとしやがって」

「仕事中はちゃんと切り替えとるやん」

 はあと綾香は溜息を吐いた。「せめてカメラの回ってないところではスイッチをオフにさせてよ」

「知るか。辛気臭えんだよ」

 南が一蹴する。「○ンナーでも○せい剤でもなんでも使って、さっさとハイになりやがれ」

「どんなマネージャーよ!」

 綾香は南に肩パンを食らわした。



 もう学生たちは夏休みに突入しているのであろう七月の下旬。綾香のスケジュールは本日も朝から晩までみっちりと組まれていた。午前中は撮影所にてグラビア撮影とインタビュー。午後からはホールにて歌番組の収録。更に夕方からはラジオの収録と、次々に仕事をこなさなければならない。

 ただ、綾香にとってそれはありがたかった。

 綾香はアイドルの仕事が好きだ。アイドルでいる時間はファンに元気な顔を、パフォーマンスを見せなければならない。その使命感のようなものが悩みを打ち消してくれる。

 早く現場に到着してほしい。そんな彼女の願いもむなしく、車は再び渋滞に引っかかってしまった。

「詩織に会いたいな」

 独り言のように綾香は言った。今自分を最も元気づけられる存在は親友の矢上詩織ではないかと思った。彼女ならきっと、綾香自身でさえも想像がつかない自分を再生させる方法を知っているに違いない。彼女とは最近忙しくてあまり会う機会がない。仕事は忙しいほうがいいのに、詩織に会いたいというのはある意味矛盾かもしれないなと苦笑する。

「ねえ」

 綾香はふと南に話しかけた。「ん?」と綾香に顔を向ける南。「詩織がうちの事務所に入りたいって言ったら雇ってくれる? アイドルとしてじゃないばい。普通に社員として」

「人事は他に担当者がいる」

 南は素っ気なく答えた。「うちは新卒を採らないから、アルバイトからコツコツと社員を目指してもらうだろうな。それでいいならいつでも人事のヤツに紹介してやる。人手不足で敵わん」

「ホント?」

 綾香の心の中のモヤモヤが少しだけ薄らいだ。「詩織、アイドルになるつもりはないっちゃけんね。もし入社しても、アイドルでデビューしろなんて言わん?」

「少なくとも今は人手不足だから言わん」

 南は深く頷いた。綾香は「やったー!」と明るい声を上げた。

「ただ」

 綾香の歓喜を沈めるような南のその言い方に、綾香は目を丸くした。「ただ?」と先を促す。「お前が親友のことを考えるのであれば、うちなんて薦めないほうがいい。給料も安いし、休みもない。親友同士で同じ職場だといっても、タレントと社員はまったく別の職業だ。かえってお前らの仲もぎくしゃくするんじゃねえか」

「そ、そう?」

 綾香の心の中にまたモヤモヤが充満していく。「確かに。詩織、第一志望はデザイン関係とか言いよったし……」

「タレントとしてうちにくるなら話は別だがな」

 南のその言葉を無視し、綾香はシュンと肩を落とした。



 撮影所の四畳ほどしかない小さな控え室に二人きり。グラビア撮影に臨む直前の綾香は、予定どおり、この場所でインタビューを受けていた。

 若い女性のインタビュアーであった。化粧っ毛が少なく、地味な服装で、なんとなく詩織と雰囲気が近いように感じる。

「初めてのコンサートの前に夏休みを丸々使って全国を巡るそうですが」

 カンペも何も持たずに次々と質問をぶつけてくる彼女。まるで自分のことを何もかも知っている旧知の仲のようだと綾香は錯覚する。その点も詩織に近い。

「はい」

 ニコリと綾香は頷いた。すでにグラビア用の照明映えする衣装を着ており、ハットもかぶっている。「握手会ツアーです。ツアーって行っても日は飛んでるし、四ヶ所だけなんですけどね。あ、ついでに、ローカル番組とかにもガンガン出演してきます」

「それは楽しみですね」

 インタビューも笑う。「ファンの人も楽しみでしょうけど、チロリさんも楽しみなんじゃないですか?」

「楽しみです」

 綾香はそう言いながら、今度は少々表情に影を落とした。「ただ、ファンの皆の前でいつもどおり元気な私を見せられるか不安ではありますけど」

 キョトンとするインタビュアー。彼女に「何かあったのですか?」と聞かれ、綾香は正直に話してしまった。真一の名前は出さず、ただ、未来に言いようのない不安を覚えているということを。本当に彼女のことを詩織だと勘違いしてしまったのかもしれない。

「私もチロリさんのファンです」

 彼女は言った。目を丸める綾香。「ファンは皆、チロリさんの幸せを願っています。だから、チロリさんも自分の幸せを信じて、ファンの前では笑顔を見せていてほしいです」

 「今の話は記事に載せません」と付け加える。

「あ、ありがとうございます」

 綾香は頭を下げ、それからインタビュアーと互いに笑顔を交わした。まるで、詩織に慰められたようだと彼女は思った。


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