46 話の流れ
さあ、踊りまーしょう。イッツパフォーマンス、イッツパフォーマンス、イエイ!
意識の片隅で聞き覚えのある曲に耳を傾ける橘川夢多。そうだ、これは綾川チロリの新曲だとすぐさま理解する。最近ではテレビを観ていても、ラジオを聴いていても、コンビニの有線でもよく流れている。話によると、かなりヒットしているそうじゃないか。CD売り上げ枚数は二十万枚を超え、着うたダウンロードも二百万件を突破しただとか。無論、橘川もCDは実用、保存用と二枚購入したし、着うたは短いものから長いものまで三件もダウンロードした。
まさか、あの小さなライブハウスにて豚の着ぐるみ姿で見事にスベッていたアイドルが、自分が生まれて初めて好きになったアイドルが、これほどの大物になるとはさすがに思っていなかった。
少々、歯がゆいような、悔しいような複雑な気持ちもあるが、しかし。
チロリちゃん。どんだけ雲の上の存在になっても、俺は君を応援し続けるぜ。
そう心に誓ったところで、橘川はようやく目を覚ました。
ベッドから上半身を起こしたまま、ぼうっと部屋の中を見回す。いつもの自分の部屋だ。ハッとして枕もとのラジカセに目を向ける。もちろん、作動していない。この部屋にはテレビはないし、もちろん有線などというものもないわけで。
ああ、携帯か。
先ほど夢の中で聴いた『イッツ・パフォーマンス』は彼の携帯の着信音だったわけだ。橘川はラジカセの横に置いた携帯電話に手を伸ばし、着信履歴を調べた。すると午後一時前に知らない番号から電話がかかってきていた。只今の時刻は一時四十分。約一時間前だ。着信音を聞いてからすぐに起きたかと思いきや、また眠ってしまっていたらしい。
それにしても……。
この電話番号は誰からのものであろうと考える。有力なのはバイト先の同僚のうちの誰かで、急に用事ができたから勤務を代わってほしいという用件。
どうしようかな。かけてみようかな。
「ふああ」とあくびをしながら橘川は悩んだ。もっとも、バイト先の同僚からだと確定したわけではない。ただし、もしそうだったら勤務を代わる気はない。その言い訳を考えるのが億劫なのだ。
と、その時だ。再び携帯が震動をし、『イッツ・パフォーマンス』を奏で始めたではないか。慌てて送信先を確認する。やはり、例の謎の番号だ。
同僚でないことを祈りつつ、橘川はおそるおそる通話ボタンを押した。携帯電話を耳に当てる。
「もしもし?」
《……》
電話は繋がっているはずだが、相手の返事はない。そのまま三秒、四秒と時間が経過した後、なんとプツッと通話が途切れてしまった。橘川は一瞬何が起きたのか分からなかったが、なんとか、相手が一方的に通話を切ったのだということを悟る。
なんなんだ? 自分からかけてきておいて……。
と、再び着信音が鳴り出した。相手は同じ。橘川は躊躇なく通話ボタンを押し、今度は「もしもし!?」と強い口調で言った。
《……》
まただんまりか、と思いかけた矢先のことだ。《あ、あの……》
女の声だ。橘川は黙って相手の言葉の続きを待った。《あの……、私、美穂です。羽山美穂》
「羽山美穂……」
聞き覚えがある。が、同僚ではない。いったい、誰であったか。眉間にしわを寄せ橘川はしばし考え込んでいたが、ほどなくして深い深い記憶の底なし沼から、一人の少女が引き上げられる。「羽山美穂ちゃって、あ、あの……。松尾和葉ちゃん? だよね」
《そ、そうです。そうです》
なんとなく嬉しそうな響きの声色だ。《あの時は芸名のほうを言い忘れてしまって、すみませんでした》
彼女の声を聞きながら、そういえばこんな声だったよなとテレビに映る松尾和葉を思い浮かべる橘川。それから 彼女と二人でファーストフード店に入った時の記憶も一つずつ、一つずつ蘇ってくる。
「あ、いや。こちらこそ、松尾和葉ちゃんって名前がどうしても出てこなくて」
先ほどの『もしもし!?』とは百八十度違った、和やかなトーンで話す。いたずら電話でないのであれば、話は別だ。「芸名ってことは、羽山美穂ちゃんっていうのは本名なの?」
《はい、本名です》
「そうか」
橘川はとりあえず調子を合わせた。もちろん、なぜ本名のほうを名乗ったのか、なぜ電話番号を知っているのか、そして、今日はいったいどのような用件で電話してきたのか。聞きたいことは山ほどあったが、とりあえずは久々の和葉との会話を楽しんでみようと思った。
《橘川さん、今でも綾川チロリちゃんのこと好きなんですか?》
他愛のない話の流れから、和葉がそう尋ねた。「うん」と素直に認める橘川。
「今でも好きだよ。あの時よりもすごく有名になっちゃったけどね」
ベッドから立ち上がり、窓際へ移動する。カーテンを開き、インナーティーシャツとトランクスのみ身につけた体が陽光に照らされる。「来月末の初ライブのチケットも予約してあるんだ」
八月三十一日に綾川チロリが渋谷の中規模なホールにて初のコンサートを行うと知り、狂喜乱舞した橘川。チケットの電話予約が開始すると同時に財布の中身も確かめず、二枚分のチケットを予約した。もう一枚は大田早苗のものだ。
《そうなんですかー》
フフフと和葉は笑った。彼女の様子について、なんだか前に話した時より言葉尻が柔らかくなったように橘川は感じた。そのことを尋ねてみようかとも考えたが、なんとなく自重する。《私、実はチロリちゃんと友達になっちゃったんですよ》
「へー。トップアイドルが友達同士なんてすごいなー」
ベッドに座り直す橘川。
《それでチロリちゃんに橘川さんのことを話したら、秀英祭の時に実行委員だった人かもしれないって言い出して。それで、チロリちゃんが自分のパートナーだったって人に橘川さんの連絡先を聞いてくれたんですよ》
「なるほど。藤岡くんからかー」
チロリが自分のことを覚えていてくれたという喜びと同時に、橘川は勝ち誇ったような気分になった。ほれ見ろ。わざわざ詮索しなくても自然な流れで疑問は解決していくものだ。もう『なぜ電話番号を知っているのか』という疑問は消えた。よし、この調子で他の疑問も。「それはそうと、今日は俺にどういった用事なの?」
《はい、実は……》
少々間を置く和葉。《私、秀大を受験しようと思ってるんですけど、入試のコツとか、その他……し、しょしょ? を相談できる秀大の先輩がほしかったんです。でも、橘川さんしか思いつかなくて》
上手く聞き取れない部分があったが、話全体は読み取れたので気にしない。
「そういうことか」
ほれ見ろとまた心の中で呟く。「俺でよければもちろん力になるけど……。あれ? でも、和葉ちゃんって貴美ちゃんとも知り合いなんじゃなかったっけ? 長岡貴美ちゃんって知らない?」
あくまで話の流れとしての何気ない質問だった。長岡貴美が自分と和葉の関係を知っていたというだけの話で、和葉と貴美が知り合いだというのは可能性の一つに過ぎない。和葉が貴美のことを知らなくとも別に不思議ではないのだ。
ただ、異変は起きた。
「ん? 和葉ちゃん?」
和葉が突然押し黙ってしまったのである。