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44 不安定なビジョン

「お前いつまで寝てんだよ」

 真一が玄関のドアを開けた瞬間、萩本は眉間にしわを寄せながら抗議した。階段を駆け上ってきたのか、少し息が上がっている。休日なわけで文句を言われる筋合いはなかったが、「すみません」ととりあえず謝罪する真一。

「ど、どうしたんすか?」

 『ぶるうす』はもう開店している。店長一人に店を任せてまで若頭が訪ねてきた理由について、真一は全く心当たりがなかった。

「お前のお袋さんから電話があったんだ」

 萩本は言った。それを聞いて真一は驚くと同時に、先ほどの胸騒ぎの正体はこれであろうと直感した。「親父さんが倒れたそうだぞ」

 親父が……。

 真一は口をあんぐりと開け、萩本の顔を見つめた。

 真一の実家は群馬にあった。彼に兄弟はおらず、現在は両親二人で雑貨屋を営みながら静かに暮らしている。地元の高校を中退した後、半ば家出のような形で上京した真一だったが、今から二年ほど前、財産が尽きかけた時に、つい両親を頼り実家に電話してしまったのだ。

 その時電話に出た母は、久しぶりに聞いた息子の声に喉を詰まらせ、彼が金に困っているということを知ると、父に内緒で仕送りをしてくれた。それから真一と母の関係は修復し、こちらの連絡先も常に知らせるようになった。

 一方、父は今でも家出した真一のことを勘当したも同然のように振舞っているそうだが、先日真一のために密かに貯金してくれているという話を母から聞かされた。

 父が倒れたということを伝えるため、母は真一の携帯電話に何度も連絡しようとしたが、いくらコールしても繋がらなかったため、仕事中なのだと思い、あらかじめ教えておいた『ぶるうす』のほうへ電話をかけたのだそうだ。萩本はわざわざそのことを伝えに、家まで訪ねてきてくれた。

「とりあえず電話してやんな」

 身をひるがえしながら萩本は言う。「俺はもう店に戻るから」

 彼の背中に「ありがとうございました」と礼を述べる真一。その時、萩本は振り返り、一瞬何かを言いかけたが、向き直ってそのまま階段のほうへ歩いていった。

 彼の様子を見て真一は思った。おそらく彼は自分と同じような想像をしてしまったのだろうと。

  


 リビングのテーブルに置いたままの携帯電話を手に取る。五つの着信記録があり、実家から三度、『ぶるうす』から二度電話がかかってきていた。常にマナーモードに設定しているため、着信に気がつかないのも無理はない。

 綾香はすでに寝室で二度寝を開始している。さすがに呆れてしまったが、今はそのほうが都合が良いということをすぐに思い出す。

 真一は実家の母に電話をかけた。

《真一?》

 声を上ずらせながら母は言った。そして彼女の口から改めて父が倒れたという報告を聞く。

「とりあえず、仕事の都合がついたら一度帰るから」

 仕事の都合は明日にでもつくだろう。以前、萩本が『困った時はお互い様だ』とこういった事態になった時のことを示唆するような発言をしていた。そして、半年ほど前に、怪我をした萩本の穴を埋めるため、真一が十回以上休みなしで勤務したことがあった。義理深い萩本なら『すぐに帰ってやれ』と言ってくれるに違いない。

 真一の言葉に母は《ありがとう》と涙ながらに礼を言った。父が倒れたということなど自分には関係ないとでも言われると思ったのかもしれない。

 もちろん、そんなことはない。父も心配だし、母も心配だ。一年前ならまだしも、バイトであるが職に就き、綾香と共同生活するようになった真一はこれでも一応成長していた。親が心配にならないなど、子供じゃあるまいし。

 母との通話を終え、すぐに『ぶるうす』へ電話をかける。萩本に相談し、できれば今日にでも帰郷しようと思う。

 こいつにもな。

 コール音を聞きながら無邪気に眠る綾香を一瞥し、真一は心の中で呟いた。

 電話に出たのは萩本ではなく店長であったが、萩本に取り次ぐまでもなく真一は一週間の長い休暇を得た。向こうは向こうですでに相談済みだったということだ。

 ひと安心し、真一は寝室まで歩いた。綾香の枕もとにドスンと座り、あぐらをかく。それから彼女の寝顔を眺めながら考えごとをした。

 父が倒れたという事実を受け、そこから派生する煙のようにモヤモヤとした、それでいて電卓のようにはっきりとした問題の存在について、始めからしっかりと気がついている。できれば考えたくはないが、いつかは考えなければならない。

 もし父が回復しなければ、もう東京に戻って来れないのではないかという問題だ。母一人で実家の雑貨屋を切り盛りするというのは無理がある。

 そうなると『ぶるうす』はどうなる? いつかは店長になった萩本の下で、若頭として働くことになるはずの『ぶるうす』は。 

 はあと溜息を吐く真一。なんて不安定なビジョンだったのだろうと今更ながらに彼は思う。父や母がいつまでも元気でピンピンしているとでも思い込んでいたのか。

 そして綾香のこともだ。自分が実家へ帰り、それでもアイドルとしての活動を続ける彼女と付き合っていけるのか。どのように想像しても現実味を持たない。

 綾香……。

 真一は綾香の頬をピンと指で弾いた。


 

「そ、そうなん……」

 真一の話を聞き終えた綾香は眠たげに目をこすりながら呟いた。起きた時のまま、ぺたんとあひる座りをしている。「あんたにも実家があったっちゃね」

「当たり前だろ」

 綾香に両親の話をしたことはないし、母にもアイドルの綾川チロリと付き合っているということを話してはいない。双方に対して特に話す必要はないだろうと真一は思っていた。綾香が真一の実家について何も尋ねないのは、彼が天涯孤独だと思い込み、そのことに触れてはいけないと考えたからなのかもしれない。

「じゃあ」

 頬をポリポリとかきながら、うつむき加減で綾香は言った。「真一、実家に帰らんといかんね」

 一旦実家へ帰るという意味で言っているのか、それとも永久的に実家へ帰るという意味で言っているのか、真一には判断がつかなかったがとりあえず「ああ」と返事をした。前者の場合の返答のつもりだ。

 途端に綾香は言葉を失くす。寝室の畳を見つめたまま髪の毛を指先でいじり続けている。ひょっとしたら後者だったのかもしれないなと真一は思う。たった今、間接的に別れを告げられたと勘違いしているのか。

 そんな綾香のことがとても愛しく見えた。少なくとも彼女とは離れたくないという気持ちを真一は実感する。

 とりあえず彼女を元気づけなくてはならない。

「心配すんな」

 彼はフッと鼻で笑った。「あの親父なら、一週間もすればコロッと回復するだろ」

 綾香は一瞬キョトンとした顔を見せた後、「そうよね!」と笑みを浮かべた。


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