40 恋する乙女
手帳に松尾和葉のサインを書き、「はい」と女子生徒に手渡す羽山美穂。女子生徒は「ありがとうございます」と美穂に頭を下げ、昇降口に向かって走っていった。
放課後の校門前。河内那美と待ち合わせをしている途中、下級生にサインをねだられてしまったのだ。皆遠慮しているのか、こういったことは日頃滅多にないが、一度火がつくと次々と他の生徒にまで飛び火してしまうということを、今までの経験から美穂は知っていた。
まだかな……。
門柱の陰からこっそりと昇降口を覗き込む美穂。そんな彼女の横顔にまた別の女性生徒が「すみませーん」ともじもじした様子で話しかけてきた。美穂と同じく眼鏡をかけ、松尾和葉と同じくポニーテールの髪型だ。彼女の持つ手帳とペンを認め、美穂は苦笑した。
「サインですね」
手帳とペンを受け取りながら美穂がそう尋ねると、少女は無言でコクリと頷いた。ふうと息を吐き、手帳にサインをする美穂。その時、不意に少女がこんな質問をぶつけてきた。
「松尾さんって彼氏とかいるんですか?」
「え?」
美穂は動揺し、ハッと少女の顔を見つめた。一方、少女のほうも、美穂の動揺に気がついたのか視線を左右に迷わせる。
まずいと美穂は思った。噂というものはどこが発信源となるのか分かったものじゃない。目の前に立つおとなしそうな少女がそうなってしまうという危険だって充分にあるのだ。
「ううん」
できるだけ平静を装い、美穂は答えた。「募集中って感じかな」
橘川夢多はあくまで片想いの相手であり、彼氏などではない。しかし、美穂はすでに彼と交際をスタートさせているというような錯覚に囚われてしまっていたのだ。
昨夜、教えたばかりのメールアドレスに綾川チロリからメールが届いた。そのことに気がついたのは、テレビ番組の収録が終わり、帰り支度をしていたテレビ局の楽屋でのことだった。『橘川さんの携帯番号ゲットしたばい』という文章と、橘川の携帯番号と思わしき数字を見た瞬間、美穂は喜ぶよりも先に激しく狼狽した。もちろん、秀英祭の時にチロリのパートナーだったという男性から聞き出したのであろうが。
どう言って聞き出したのか。自分の名前を出したのか。橘川はこのことを知っているのか。そもそも、この番号は本物なのか。
様々な疑問が美穂の頭の中を駆け巡った。当然のことながら早速橘川に電話をかけてみようなどと思えるはずはない。
美穂が落ち着きを取り戻したのは、就寝前、いつものように親友の那美に電話をかけた時であった。橘川の携帯番号を入手したということを那美に告げると、彼女は『やったね』『良かったね』と祝福の言葉をまくしたててくれた。
那美と話しているうちに先ほどのような疑問、いや、疑問というより不安か。それらは夕立の後の空のごとく、見る見るうちに晴れていった。
そうだ。何も心配することはない。ついに自分はやったのだ。夢にまでみた橘川との再会がすぐ目の前に迫っている。手を伸ばせば届く、電話さえかければ届いてしまう距離にまで迫っているのだ。
那美との通話を終えてからの美穂は無敵だった。ベッドの上で何度も何度も橘川に電話をかけるシミュレーションをした。まずはお茶にでも誘ってみよう。それとも始めは挨拶だけに留めておいたほうがいいか。逆にいきなり告白したらどうなるのであろうか。しかし、どれだけ悩んでも、どうせすべての選択肢は美穂にとって都合のいいものに繋がっているのだ。
美穂の心情としてはそれでいい。ただ、夜が明けても、実際に橘川へ電話をかける決心がまるでつかないのは問題であった。
「で? いつ電話するの?」
遅ればせながら登場した那美が美穂の顔を覗き込んだ。以前のおかっぱ頭に代わり、最近は美穂と同じようなセミロングへヤーになっている。「うーん」と唸り声を上げ、指先で髪の毛をいじる美緒。二人は学校からすぐ近くの、あまり人気のない路地に入り立ち話をしていた。
「早いほうがいいんだよね」
恐る恐る美穂は尋ねる。口を真一文字に結び、那美は頷いた。
「七月になったら期末テストだってあるでしょ。テスト期間中は恋なんかにかまけてる場合じゃなくなるよ」
「そうだよねえ……」
はあと溜息を吐く美穂。「でもさ。電話するにしても何て言えばいいと思う? 私が橘川さんの番号知ってるのって変じゃない? それに、なんで電話をかけてきたのかって言われれば、また返答に困っちゃうよ」
昨夜のシミュレーションでは正直に『橘川さんとまた会いたかったから』と答えた美穂。橘川も『俺ももう一度君に会いたかった』など美穂の思うままの台詞を口走ってくれたため、ことは順調に進んだが、現実はそう上手くもいかないということを美穂は一応理解していた。
「えーっと」
那美は腕を組み、宙に視線を泳がせた。しばらくして、何かを思いついたらしくパッと表情を明るめた。「貴美さんの時と同じように、秀英大学志望ってことにすればいいんだよ。美穂はどうしても秀大に入学したい。だから秀大の先輩に入試対策なんかを相談したいけど、秀大生の知り合いは橘川さんしかない。だから綾川チロリに頼んで、橘川さんの携帯番号を入手したってのはどう?」
「おお。辻褄が合ってる」
美穂は感心し何度も頷いた。「でしょ?」と那美が同意を求める。
「じゃ、早速橘川さんに電話してみよう!」
「ええ!」
一転、顔を引きつらせる美穂。「い、今からかけるの? それはちょっと急すぎない?」
「向こうに言わせれば、いつかけても急だと思うけど」
正論を唱える那美。「そりゃそうだけど……」と美穂は口ごもった。しばしの沈黙の後、那美のねっとりとした視線に耐え切れず、スカートのポケットから橘川の番号がメモリーされた携帯電話を取り出す。今日一日、親の形見のように肌身離さず持っていたのだ。
「こっちまでドキドキしちゃう」
そう言って胸を押さえる那美をチラッと一瞥し、美穂は携帯を開いた。メモリーから橘川夢多の番号を呼び出し、はあと深呼吸をする。
「ちょっと待ってね」
更に深呼吸をする美穂。「早く早く」と那美に急かされる。
更にもう一度深呼吸をして、数秒間携帯を見つめた後、美穂は「ダメだー!」と那美に泣きついた。
「ムリムリムリ!」
泣きついたといっても顔は笑っている。那美の腕をつかみ、ゆさゆさと揺さぶる。「『今忙しい』とか言われちゃったら、私凹んじゃうよー!」
「あんたはただの秀大志望なんでしょ!」
那美も美穂に調子を合わせ、笑顔でそう諭した。「普通に後でかけなおせばいいでしょうが!」
「だってだって!」
美穂はブルブルと首を横に振った。そんな彼女たちの楽しげな様子を、通りかかりの老婦人が冷たい視線で見つめていた。
結局、橘川に電話をかけるのは期末テストの終了後まで延期することにしたのである。