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39 終電

 駅から少し歩いた場所に小さなアイスクリーム店がある。若者に人気の店で、日中は常に行列を作っているが、夜もすっかりと更けてしまった現在では比較的すんなりと二人分のソフトクリームを購入することができた。

 両手に一つずつソフトクリームを持つ橘川夢多。黒のティーシャツにカーキ色のチノパンツを着用している。頭にはグリーンの野球帽をかぶり、肩からはショルダーバッグを提げている。

 店の目の前にある赤信号につかまり、橘川は数人の通行人と共に横断歩道の前で立ち止まった。昼間雨が降ったせいでいつも以上に空気がじめじめとおり、それに伴って身体中をやたらと汗が伝うため、早くもソフトクリームが溶けてしまわないか心配になるが、今のところはまだ原型を留めてくれている。

 信号が青に変わり、横断歩道を渡る橘川。すぐに建物の壁に寄りかかり携帯の画面を見つめる大田早苗の姿を発見し、彼女のもとへと近づいた。「はい」と橘川が片方のソフトクリームを差し出す。早苗は橘川の顔を確認すると、携帯を閉じ「ありがとう」と微笑みながらソフトクリームを受け取った。白いワンピースの上から黒のジャケットを重ね着し、彼女はハンドバッグを肩に提げていた。

「早苗の言ったとおりだった」

 そう言いながら橘川は腕時計を見た。「あの店、十一時に閉店なんだって。ギリギリセーフだったね」

 時刻は午後十一時。本日は二人の仲を知るオーナーの厚意もあり、珍しく二人とも夜勤のバイトを休ませてもらった。その休みを利用し、二人で新宿区内のホールへ早苗の好きなロックバンドのコンサートを観に行った帰りである。これから秀英大学の近所にある早苗の自宅まで橘川が彼女を送り、その後橘川一人でまた電車に乗り帰宅する予定である。

「それじゃ、食べながらでもいいから歩こうか」

 秀英大学の方向へやや慌てた様子で歩き始める橘川。ここから早苗の家までは歩いて二十分ほどかかる。もたもたしていると終電を逃してしまう可能性だってあるのだ。タクシーで帰ってもいいが、もちろん余計な出費はできるだけ控えたい。

「うん」

 そう頷きながら早苗も橘川に続く。しかし、橘川の焦りとは裏腹にかなりゆったりとしたペースである。

「早苗ちゃん?」

 ソフトクリームにかぶりつきながら、橘川は立ち止まった。

「大好きな『ライドオン』歌ってくれなくて残念だったなー」

 橘川に追いついたところで、早苗が出し抜けに言った。本日のコンサートの話であろう。「年内にもう一回ぐらい二人で観に行こうね」

 ペロリとソフトクリームを舐める。

「ま、まあ、休みが取れればね……」

 橘川はやや首を傾げながらも、しかたなく早苗のペースに合わせ再び歩き出した。「でも、すごい迫力だったね。コンサートって初めてだから、ちょっと圧されちゃったよ」

「圧されちゃった? だらしないな、アハハ」

 屈託のない笑顔でコロコロと笑う早苗。そんな彼女を横目で見ながら橘川は思った。

 ま、いいか。早苗との時間に代えれば、タクシー代なんて安いもんだ。

 

 

 秀英大学正門前の道路沿いに設置されたゴミ箱の中に、二人はそれぞれ食べ終わったソフトクリームのコーンの包み紙を捨てた。時刻はすでに十一時半を回っている。

「チロリちゃんのコンサートにも二人で行きたいよねー」

 早苗が右手をチョキにして額に当て、チロリンポーズを真似ながら言った。今度は橘川の好きな綾川チロリの話題である。先日、橘川はついに自分は綾川チロリのファンだということを早苗に告白したのだった。もともとバレ始めてはいたが。

「コンサートねえ」

 苦笑する橘川。「チロリちゃんの持ち歌自体、カップリング合わせて二、三曲でしょ。まだまだ大規模なコンサートはできないだろうなー」

「そういえば新曲とかって出すのかな」

 早苗がそう尋ねたところで、大通りから小道へと折れる二人。そちらに早苗の住むアパートがあるのだ。宵闇の深さが増し、心なしか二人の距離が縮まる。「今度は『やっぱり佐世保が好きやけん』とかだったりして」

「チロリちゃんなら有り得るかも」

 橘川はうんうんと頷いた。「ファンサイトで夏中に一曲リリースされるって噂になってるけど、どうだろうね」

 そんな話をしているうちに早苗のアパートに到着する。洋風の洒落た造りで、カードキーを採用するなど近代的な面も併せ持っている。

「今日は本当に楽しかったね」

 並んでエントランスホールに入ってすぐに橘川は言った。今までにも彼は何度か早苗をここまで送り届けているが、エントランスホールより先へ進んだことは一度もない。「うん」と頷く早苗。「明日は二人ともバイトだったっけ? じゃあ、また明日か」

「うん……」

 早苗は寂しそうにまた頷いた。そして橘川が軽く手を振りながら彼女に背を向けようとした瞬間、彼女が「夢多」と彼を呼び止めた。

「え?」

 橘川は振り向いた。まだ『夢多』と名前を呼び捨てにされるのを慣れていないため、少しだけ呼吸を乱している。「どうしたの?」

「終電には間に合いそう?」

 早苗は上目づかいで言った。その言葉を橘川は意外に感じる。彼女も一応終電の存在には気づいていたのか。

「ぼちぼち四十五分か」

 腕時計で時刻を確かめる橘川。彼は「ハハ」と乾いた笑い声を発した。「随分とのんびり歩いてきちゃったな。まあ、走ればなんとか間に合うと思うけど」

「まだ帰らないでって言ったら怒る?」

 早苗のその言葉に橘川は「へ?」と目を丸め、パチパチとまばたきを繰り返した。数秒後、コホンと咳払いをし、それから横に幾度か首を振った。「大丈夫だよ。なんだったらタクシーで帰ってもいいわけだし。実は俺も、もう少し早苗と話をしたいって思ってたんだ」

「タクシーじゃなくて、明日電車で帰ってもいいと思うけど」

「明日?」

 そう返事をして再び目を丸める橘川であったが、やがて早苗の言葉の真意を理解し、ハッと固まってしまう。

 エントランスホールを流れる生暖かい空気が一瞬だけ凍結した。 



「夢多……」

 橘川を真っ直ぐに見つめたまま、一歩ずつ彼のそばへと近寄る早苗。「好きだよ。大好き」

「さ、早苗、ちょっと……」

 あっという間の出来ごとであった。早苗はそのまま橘川の肩に両手を回すと、たじろぐ橘川の唇に自らの唇をそっと重ねた。成す術もなく、早苗に唇を委ねる橘川。しかし、次第に彼の中でも早苗への愛情が膨らんでいく。彼も早苗の背中に手を回す。

 二人はキスを解き、見つめ合った。

「私たちは深夜勤務なんだから」

 エヘヘと早苗は笑った。「二人とも休みをもらったのに、離れ離れで夜を過ごすなんて変でしょ?」

「うん」

 橘川は深く頷いた。そして今度は彼のほうから早苗にキスをするのであった。


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